伝えられない苦しみ~近藤雄生著『吃音』~
「東京2020 パラリンピック」が開幕した。
日本の夏の終わりを告げる恒例の「24時間テレビ 愛は地球を救う」はパラリンピックの影響からか例年より少し早い時期に放送されたようだ。
「24時間テレビ」はもちろんだが、近年それ以外のテレビ番組でもハンディキャップを持った方々を目にする機会が増えたような気がする。
しかし、よく考えてみると、一番身近なはずなのにテレビであまり見かけない方々がいるような気がする。
それは、「吃音」の方々だ。
注意:本稿は、専門知識のない私による、近藤雄生著『吃音-伝えられないもどかしさ-』(新潮文庫、2021年。以下、本書)の紹介であり、吃音に対する有用な情報ではありません。吃音について正しい情報を得たい方は、ネット検索ではなく、専門書等の入手をお勧めします。なお、本書は入門書として役立つと思われますので、興味のある方は是非ご一読ください。
「吃音」について
以前、「自分の「心」や「身体」と折り合いをつけながら生きていく。そして他者とも。」という拙稿で、ドミニク・チェン著『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』(新潮社、2020年)を引用したが、改めて本書から引用する。
吃音を発症するのは、幼少期の子どものおよそ20人に1人、約5%と言われている。そのうち8割ぐらいは成長とともに自然に消えるが、それ以外は消えずに残る。その結果、国や地域によらずどこでも、概ね100人に1人、つまり約1%の割合で吃音のある人がいるとされる。(略)およそこの程度の割合であるとすると、日本ではざっと100万人が吃音を抱えている計算になる。
ひと言で吃音と言っても、症状は多様だ。大きくは3種に分けられる。「ぼ、ぼ、ぼ、ぼく」のように繰り返す「連発」、「ぼーーくは」と伸ばす「伸発」、「………(ぼ)くは」と出だしなどの音が出ない「難発」。連発が一番吃音と認識されやすいものの、連発から伸発、さらに難発へと症状が進んでいくケースが多く、一般には、難発がもっとも進行した状態だとされる。
先述の『未来をつくる言葉』でドミニク氏は自身の症状をこう語る。
ある言葉を発しようとした刹那、喉元まで出かかった言葉が声となって出てこない。無理に押し通そうとすると最初の音を連発するか、もしくは会話のリズムを外してしまい、無言で終わってしまう。
そして「吃音」について、こう説明する。
吃音は一般的には「症状」だとされているが、その原因や程度は人によって大きく異なる。(略)世の中には吃音が原因で対人関係がうまくいかず、就職ができなかったり、自死に至るケースもある。
「吃音」の複雑さと苦難
本書でも、ドミニク氏と同様の指摘がなされている。
本書の著者・近藤氏によると、吃音者が苦しむ原因は『吃音が持つ二つの特徴点』にあるという。
その一つは、「曖昧さ」だ。
(略)原因も治療法もわからない、治るのか治らないのかもわからない。また、精神障害に入るのか身体障害に入るのかもはっきりせず、症状も出るときと出ないときがある。
『現在でも原因はわかっておらず、医学的な治療方があるわけでもないため、長らく病院では扱われてこなかった』という吃音の複雑さは、以下の点からも明らかだ。
吃音は、WHO(世界保健機関)による国際的な疾病分類ICD-10において、「精神及び行動の障害」という分類の中の、「小児<児童>期及び青年期に通常発症する行動及び情緒の障害」という下位分類の、「その他」とも解せるグループに「吃音症」として入っている。「その他」とされるのは原因等が不明だからであろう。
『医学的にどう位置づけるべきか現段階では定まっていないと言える』ということなのだが、そのため吃音は昔から誤解されてきた。
たとえば1956年1月21日の毎日新聞(夕刊)には、三段にわたって「"ドモリの悲劇"から子どもを守ろう」と題された記事が掲載されているが、「中央吃音学校」の校長なる人物の談話とされるその記事には、こう書かれている。
《ドモリになる原因は幼時の精神的身体的なショック、厳格過ぎるしつけなどもありますが、最大の直接的な原因は2,3才から7,8才ごろまでの間にどもる大人のまねをすることです》《ドモリの理由がはっきりしているのですから、なおし方も割合簡単で、軽いうちなら特別な知識がなくても家庭でなおせます》。そして、《大体20日間で大抵のドモリはなおるとのことです》。
吃音は「単なる癖」と誤解されており、それ故「からかい」「いじめ」の対象となってしまう。
本書によると、知識のない子どもたちが「どもり」の子どもを興味本位で真似したり、からかったりすることにより、吃音の子どもがショックを受け、さらに重症化したり、喋らなくなったり、引き籠ったりすることも多いらしい。
また、「いじめ」の標的にもなりやすく、最悪の場合、自ら死を選んでしまう子どももいるという。
大人になっても、就活の面接が上手くいかなかったり、就職しても上司や同僚、顧客などと会話ができず、「吃音は癖」と誤解している人々から「叱責」されることも多く、メンタルに不調を来したりし、やはり引き籠ったり自ら死を選んでしまう人も多いという。
そこまで酷い目に遭わなくても、また、大人になって吃音が出なくなっても、大なり小なりトラウマとなり、それが一生付き纏う人が多いともいう。
それが、近藤氏が指摘するもう一つの特徴である『他者が介在する障害』でもある。
吃音は、通常一人でいるときには障害にはならない。ほとんど常に他者とのコミュニケーションに関連して生じる障害であると言える。どもる時に感じる苦しさは、言葉が詰まって言えないことそのもの以上に、相手に不可解に思われたり驚かれたりすることに対する恥ずかしさや怖さによる部分が大きいようにも思う。話した瞬間に、いつも相手に「どうしたんだろう?」と驚いた視線を向けられること、または向けられるかもしれないと恐れることは、人とコミュニケーションを取る上で心理的に極めて大きな負荷になる。
なお、日本では先述のWHOの分類に基づいて、『2005年に施行された発達障害者支援法の対象となっている』。
それはつまり、『吃音で障害者手帳を申請する場合、通常、精神障害(発達障害を含む)として「精神障害者保健福祉手帳」を申請する』ことになるのを意味する。
『身体障害ではなく』「精神障害者」という認識が、冒頭に書いた「吃音者をテレビ番組であまり見かけない」理由の一つではないかという気もする(あくまで私の憶測)。
「わかりあえなさ」を共有する
以上、簡単に説明したように「吃音」は、まだまだわかっていないことが多く症状に対する一般的な理解も少ないため、発症されている方々は大きな苦難を負って生活している。
「吃音」を持たない人間は、つい、言葉で「わかりあおう」としがちだが、そもそも「わかりあう」必要があるのだろうか?
先述のドミニク・チェン氏が言う。
結局のところ、世界を「わかりあえるもの」と「わかりあえないもの」で分けようとするところに無理が生じるのだ。そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共にあることを受け容れるための技法である。
私は、先の拙稿に書いた文章について改めて考えている。
たとえ「わかりあえない」としても、それは「障がい」ではない。
だから否定することも、敵視することもない。
自分と他人との「わかりあえない」隙間を「新しい意味が生じる余白」として再定義し直す。
時には、(略)「行為の主導権を人に明け渡」してみたり、ドミニク氏の言うように「じっと耳を傾け、眼差しを向けて」みたり。
そうしているうちに、やがて「お互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる」。
それは「わかりあえる」こととは違う、別の関係性だ。
それがきっと「折り合いをつける」ということなのだろう。
出典:近藤雄生著『吃音ー伝えられないもどかしさ-』(新潮文庫)