「銀平スカラ座」の物語を川越スカラ座で観る~映画『銀平町シネマブルース』~
私は映画などのモデル・ロケ地を巡る、所謂「聖地巡礼」に興味がない、と以前の拙稿に書いた。
映画『銀平町シネマブルース』(城定秀夫監督、2023年。以下、本作)を川越スカラ座で観るのは、「聖地巡礼」ではない。
スクリーンに映る「銀平スカラ座」は架空の映画館だが、川越スカラ座にほとんど手を加えることなくそのまま使っている。川越スカラ座は本物の映画館であり、そこで映画を観るのは当然の行為だ。だから、「聖地巡礼」ではない。
ほとんどそのまま川越スカラ座である「銀平スカラ座」を川越スカラ座で観る、というのは、不思議で特別な体験だった。
主人公・近藤(小出恵介)が掃除していたトイレは上映前に私が使用したトイレだったし(近藤の落書きはないらしい)、その前、私が映画館に入ったドアは、彼の別れた妻(さとうほなみ)と娘(谷田ラナ)が入ってきたドアだ。
時に客席側から「銀平スカラ座」のスクリーンが映るが、それはそのまま川越スカラ座のスクリーンでもある。
時にスクリーン側から客席が映るが、それはそのまま川越スカラ座の客席であり、「銀平スカラ座60周年イベント」に集った大勢の観客は、そのまま今「先行上映会」に集っている我々であり、そこに確かに私の姿を認めることができた。私は川越スカラ座のスクリーンから、こう見られているのか。
スクリーンに映る映画を観るホームレスの佐藤(宇野祥平)の幸せそうな表情と同じ表情で、きっと我々は『銀平町シネマブルース』を観ているはずで、スクリーンに映る観客たちは笑っていて、我々もやっぱり笑っているが、そうやって皆で笑い合って観るという、ありきたりな行為こそが実は幸せなんだと気づいて、時々泣きたくもなった。
本作は、大人が本気で笑えて、大人が「半分暗闇」を利用してこっそり涙を拭えるという良質のエンターテインメントであるが、「映画文化の危機」とも言われる現代から目を背けて単純に映画を美化したような物語ではない。
「名画座」である「銀平スカラ座」は観客が入らず経営難で閉館寸前であるし、近藤の映画で助監督を務めていた相棒でもあった高杉(平井亜門)は自殺してしまう。
そして何より、ホームレスの佐藤が「映画文化の危機」を象徴している。
しかし、本作は「映画文化の危機」をただただ悲観しているわけでもない。
「銀平スカラ座」を存続させるために支配人の梶原(吹越満)は日々金策に走り、観客が戻ってくるように「60周年イベント」を開催したりもする。
高杉の母(片岡礼子)は、近藤の映画の中に息子を認め、癒される。
「自分が撮った最初の映画はこの映画館で上映したいと思っていた」という若い女性監督(小野莉奈)だっているし、映画オタクの中学生(小鷹狩八)だっている(映写室での彼と映写技師(渡辺裕之)のやり取りは何となく、公開されたばかりのインド映画『エンドロールのつづき』(パン・ナリン監督)を彷彿させるような……)。
そして何より、高杉の自殺をきっかけに映画作りから遠ざかり転落人生を送っていた近藤が、野辺送りのシーン(つまり本作は、一度「良き時代の映画」を葬っている)を経て、再び映画を撮ろうと決意するラストシーンが「新しい時代の映画」への希望を表しているし、それは同時に城定監督や脚本を担当した、いまおかしんじ氏ら映画人たちの決意表明でもある。
だから、本作を観た私は「新しい希望」を得て、佐藤のように手を合わせ、清々しい気持ちで「銀平スカラ座」もとい、川越スカラ座のドアから出ていけたのである。
※映画『銀平町シネマブルース』は、川越スカラ座以外にもいくつかの映画館で先行上映された後、2023年2月10日に全国公開されます。
そして、その後、2023年4月15日に川越スカラ座に戻ってくる予定です。
メモ
映画『銀平町シネマブルース』
2023年1月21日。@川越スカラ座(先行上映・舞台挨拶つき)
川越スカラ座にほとんど手を加えていない、と書いたが、観客だって「銀平スカラ座」と同じだ。
川越スカラ座のチケットは基本的に窓口販売だけだが、今回のようなイベントの際にはネット予約を受け付けることがある。
当日窓口でその旨を伝えると整理券を渡され、そこに書かれた整理番号(ちゃんと予約順になっている)順に入口前に並ぶシステムで、スタッフの方が客の整理番号を確認し「〇番の方はどこですか?」と声を出すと、列に並んでいる人が「私です」「(〇番に近い)△番です」などと名乗り出て、後から来た観客のためにスペースを開ける、といったほのぼのした光景が見られた。
上映後の舞台挨拶も、予想外のアットホームさだった。
というのも、登壇予定だった城定監督が大遅刻するというハプニングが発生したからで、監督が来るまでの時間繋ぎで、緩い質疑応答が展開されたからである(城定監督は電車を乗り間違えて、埼玉県川越市ではなく神奈川県横浜市に向かってしまったそう。東京周辺の鉄道はJR・私鉄関係なく相互乗り入れが発達し過ぎて、城定監督のように川越(東武線・川越市駅)に行きたいのに横浜(東急東横線)に向かってしまう、ということが常時発生している。都心からだと横浜方面はまだましだが、逆となると川越や、埼玉県飯能市(西武池袋線)まで行ってしまうから要注意)。
その緩い質疑応答で、映画が完成して喜ぶ近藤について、いまおかしんじ氏の脚本では「さらりと、"小躍りする"と書かれてあった」そうだが、「一体"小躍り"って何だろう?」という話で盛り上がった。
その話を聞きながら私は、全く関係ないが、1997年のシティボーイズMIX公演『Not Found』の「外された人達」というコントで、シティボーイズの3人(大竹まこと・きたろう・斉木しげる)と、いとうせいこう・中村有志が扮する窓際会社員それぞれが思う"小躍り"を披露する、というシーンを思い出していた(本当にどうでもいい話)。
それはそれとして、本文の結びに書いたように清々しい気持ちで川越スカラ座を出た私だが、来るときはもちろん、以前の拙稿に書いたルートを歩き、当然「風車男ルリヲ」も歌っていたのである。
※本文中にある「半分暗闇」は、本作同様、閉館に追い込まれている映画館を再生させる奮闘を通して、映画館で観る映画の魅力を伝える映画『浜の朝日の嘘つきどもと』(タナダユキ監督、2021年公開)での、大久保佳代子さん演じる茉莉子のセリフから拝借しました。
フィルム時代の映画はコマの切れ目を見せないために、そのタイミングでシャッターを閉じてしまう。
『つまり、半分は暗闇を観てるってこと』(by茉莉子)
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