大坂なおみ選手の発言から「ブラックフェミニズム」を考えてみる(追記)

先日(2020年)、テニスの大坂なおみ選手が全米オープンで優勝し、それと併せて、試合ごとに着けていたマスクも話題になった。
大坂選手は、その前に出場したウエスタン・アンド・サザン・オープンの準決勝でも、棄権を表明し話題になった(その後、大会側の対応により撤回)。その際、「私はアスリートである前に一人の黒人女性です」と発言して物議を呼んだ。
本稿では発言自体の是非ではなく、「黒人女性」と発言したことを、あえて深読みしてみる。

たぶん自然な流れで「黒人女性」と発言したのだと思うが、もしかしたら、そこには「ブラックフェミニズム」への含みもあったのではないだろうか。
つまり、「BLMからも、(#MeTooに代表される)フェミニズム運動からも、黒人女性は排除されている」という抗議の意味もあったのかもしれない、というのは考え過ぎだろうか。

ブラックフェミニズムとは

現代思想 2020年三月臨時増刊号『フェミニズムの現在』(青土社)に掲載された、藤原和輝氏寄稿「インターセクショナル・フェミニズムから/へ」から引用する。

インターセクショナリティという用語は現在、広く用いられているが、その系譜がアメリカ合衆国におけるブラックフェミニズムにあることはあまり知られていないかもしれない。まずここで確認しておきたいのは、「インターセクショナリティ」という用語そのものを作り出したのが黒人女性のフェミニストであるキンバリー・クレンショーであるということである。
(略)
このように、クレンショーが提示したインターセクショナリティは性差別と人種差別を別々に切り離して考えるのではなく、その「交差」を理論化するために提示された概念である。それは、黒人女性が性差別と人種差別の「交差点」において両方の差別から「轢かれる」現実に対する差し迫った問題意識から生まれたものである。
(略)しかし、インターセクショナリティという用語がクレンショーによって創造されたものだとはいえ、そのような思想や発想、観点の萌芽はすでにそれ以前から芽生えていたと言える。例えば、同じく黒人女性フェミニストのベル・フックスの諸テクストがそうである。
(略)
フックスは『アメリカ黒人女性とフェミニズム -ベル・フックスの「私は女ではないの?」』(一九八一)で次のように述べている。「黒人女性ほど、自己を押し殺すように社会化された集団は、アメリカにはほかにない。この文化の中で、私たち黒人女性が黒人男性と別個の集団であると認められることはめったにないし、「女性」という集団の一部と認められることもほとんどない。黒人について論じられるときは、性差別のせいで黒人女性の声がかき消され、女性について論じられるときは、人種差別のせいで、やはり黒人女性の声はかき消される。黒人について論じられるときは、たいてい黒人男性に、女性について論じられるときは、たいてい白人女性にスポットライトが当てられる」(フックス 2010:20)

 P35-P36 

我々が「BLM」を考えるとき、無意識のうちに、被害者は「黒人男性」と思ってしまっていないだろうか?
「#MeToo」の記事を目にしたとき、ハラスメントを受けている「白人女性」を思い浮かべてしまっていないだろうか?
もしそうなら我々だって、(たとえ無意識だとしても、いや、無意識だからこそ)差別の加害者側に立っているのではないだろうか、と自問してみる。

日本人とインターセクショナリティ

BLMと関連付けるとどうしても日本人とは無縁な印象を持ってしまうが、では本当に無関係なのかというと、そうではない。同寄稿の続きをさらに引用する。

同様の現実について、例えば、八〇年代にアメリカ合衆国に留学した高橋りりすも『サバイバー・フェミニズム』で次のように述べている。「教師を三年やってから、八一年から八四年にかけてカリフォルニア大学に留学し修士課程で演劇を勉強したのですが、そのときのことです。[…] まだ、男の教授の方は余裕があるので比較的寛容だったけど、女の教授は外国人がクラスに入るのを露骨に嫌がった。今から一〇年前のことだったし、カリフォルニア大学でも田舎の分校だったせいもあるだろうけど。/ そのとき、一人だけ目をかけてかばってくれる先生がいて信頼していたら、彼にセクハラをされたの。あの当時は、人種差別的な白人の教授を味方につけて、セクハラを防ぐか、あるいは、男のセクハラ教授を味方につけて、人種差別から身を守るか、どっちがましかというほとんど究極の選択だったと思う」(高橋 2001:8)。有色人種の女性たちが直面していた現実は、性差別と人種差別の二つを別々に思考していては捉えられないどころか、むしろそのように分断されたカテゴリーによっては「有色人種の女性」の実存もバラバラに寸断され、周縁化され、抹消されてしまうものだった。高橋が次のように述べているように、それらの差別は切り離せないのである。「でもね、人種差別とセクハラは切っても切り離すことができないの。人種差別を受けている者がまずセクハラの標的になる。キャンパスの中に女性センターがあるのだけど、相談にいったら「私たちは人種差別の問題は扱えない、アジア学生組合に行きなさい」と言われる。そう言われても、そこに行ったって解決できないのよね。両方の要素が絡み合っているのだから」(高橋 2001:8-9)

P37
※太字、引用者

ということは、日本人だって、「差別やハラスメントの被害者であるにも関わらず、社会的要因によって無自覚のうちに排除されてしまっている」、つまり、「気付かないうちにインターセクショナリティの被当事者になってしまっている」可能性があるということだ。

(2021.04.07 追記:最近、COVID-19に端を発した「アジア人へのヘイトクライム」が問題になっている。アジア人女性についても「インターセクショナリティ」の問題は顕著になっていくのかもしれない)

注記:本稿について

本稿は、以前BLMについて書いた拙稿『2020年5月にアメリカで起こったことを SNSの観点で見てみる』から、「こういう「社会運動」に関するような文章はあまり書きたくないし、別記事にするほどの分量でもないので、「参考」ということで」と載せていた「ブラックフェミニズム」引用部を転記/加筆したものです。
なお、その拙稿や本稿でも書いたとおり、BLMはとてもナーバスな問題であり、自身の狭い知識や経験、一時の正義感だけで不用意に発言すると、そのことが逆に差別の肯定/助長と捉えられてしまう可能性があります。そうならないよう、様々な情報や意見を調べて、まずは、自分なりの意見/意思を確立していただきたいと思っています。
本稿がその一助になれば幸いです。

(2021.12.23 追記)
Web版「現代ビジネス」 2021年12月23日配信に社会学者・下地ローレンス吉孝氏の、『現代社会の最重要概念「インターセクショナリティ」をご存知ですか?』という寄稿文が掲載されています。とても参考になります。



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