イキウメ 舞台『人魂を届けに』(第31回読売演劇大賞 最優秀作品賞受賞作)
イキウメ公演 舞台『人魂を届けに』(前川知大作・演出。以下、本作)は、演劇の特徴を見事に生かした作品だった。こういったことは、映画やドラマ、小説ですら実現不能だ。
本作で無料配布されたリーフレットの「Introduction」にはこう書かれている。
断っておくが、これは「ストーリー」ではなく、「設定」である。
観客は、本作の「物語」を観るのではなく、この「設定」の中で八雲や山鳥を始めとする登場人物たちが語る物語を観る。
それはどういうことか?
全ては、この「設定」に先駆けて、冒頭で「語られる」エピソードに集約されている。
そのエピソードを要約すると、こんな感じだ。
ある男Aが街を歩いていて、ふと何気なく、ビルとビルの間の狭い路地というか隙間に目をやる。
Aはそこで、見知らぬ男2人BとCが喧嘩、というか、BがCを一方的に殴りつけているのを目撃してしまう。
Aが見ているのに気がついたBは、Aのもとにやって来て、「Cとは友達で、ふとしたことから喧嘩になっただけだ。だが、あなたには嫌なものを見せてしまうことになった。お詫びにこれを受け取ってくれ」と、Aに無理矢理1万円札を握らせ、Cを介抱するように抱えて去って行った。
Aは掴まされた1万円札を返す機会を失してしまった。
さあ、Aはその1万円札をどうしたか?
コンビニの募金箱に入れて後ろめたさをチャラにしようとしても、それはできない。何故なら、AはBが一方的にCを殴りつけているのを目撃した、という事実は消えないからだ。
ここで、Aが仲裁に入ることも警察を呼ぶこともなく、1万円札を受け取ってしまったことを聞かされた、我々観客はさらに複雑な状況に追い込まれる。
何故なら、観客は実際にBがCを一方的に殴りつけるところを「幻視」という形で目撃してしまった上、さらに、Aが1万円札を受け取ってしまうところも目撃してしまったのだ。
つまり本作は、八雲が山鳥やそこで暮らす若者たちと会話する姿を観るのではなく、その会話の向こうにある「何か」を観る(観てしまう)作品なのである。
「幻視」は、想像と共感によって引き起こされる。
想像・共感は、あらゆる生物の中で「人間」だけが有する能力だ。
長年、刑務官として死刑囚の刑が執行される場面に立ち会ってきた八雲は、自分でも気づかないうちに、心を削られてそこに隙間風が吹くようになった。その隙間風に阻まれて、八雲は「想像・共感」を見失った。失くしたわけではなく、そういう存在を忘れてしまったのだ。
だから、息子が失踪した後に妻が記した「詩のようなメモ」に覚えた感動が「共感」だということに気づかなかった。それが「共感」だと気づいていたら、妻が深く傷つくような行為には及ばなかっただろう、
私は本稿冒頭で、「映画やドラマ、小説ですら実現できない、演劇特有のもの」といったようなことを書いたが、それは「幻視」するための想像・共感には身体性・肉体性が必要だからだ。
つまり、生身の人間の語りや身振り手振りを「感じる」ことにより共感が引き起こされ、それによって想像力が働き、生身の肉体を通した向こう側に別の何かが「見えてしまう」のである(ちなみに言えば、「ママ」と呼ばれる山鳥役の篠井英介が女形だから、観客はそれに違和感を抱かない。だが、それが「幻視」であることが劇中で暴かれ、観客は「幻視」についてはっきり意識させられることになる)。
だから、きっと本作の台本を読んでも、そこからはっきりとした「幻視」が立ち上がることはない。
人間の想像力・共感力・幻視力が凄いのは、現実にあるものだけが見えるのではなく、現実にないものまでを見ることができる点にある。
死刑囚の体から飛び出たとされる黒い物体が何であれ、我々はそれに、見たことのない、現実に存在するかどうかもわからない「人魂」を見てしまう(八雲の上司が「宙に浮かぶ青白い炎しか『人魂』と認めない」と言うが、それは過去の映像などから刷り込まれた単なるイメージであって、本質的には「青白い炎」と「黒い物体」に違いはない)。
八雲は自らの脚に受けた弾丸とともに、山鳥たちに『自らの物語を語』ることによって想像・共感の存在を思い出していく。それは「人間」を取り戻すことに繋がる。
山鳥は八雲に言う。
『人魂を届けにきたあなたは、実は、人魂に届けられた』
そしてまた、「幻視」に至る想像と共感が人間だけが持っているものであるとするなら、俳優の身体を通した向こう側に別の人物/物語を「観た」我々も、本作によって「人魂を届けられた」。
つまり本作タイトルが示す『人魂を届けに』きたのは、本作という作品であり、届ける宛て先は、我々観客だったのだ。
メモ
イキウメ公演 舞台『人魂を届けに』
2023年5月24日 ソワレ。@シアタートラム
本作の物語は、登場人物たちによって「語られる」だけでなく、状況に応じて、山鳥と暮らす若者たちによって「代弁」もされる。
この時観客は、「劇中の若者たち」を、「語りの中の人物」と「見立てる」。
「見立て」も演劇ならではの特徴であり、劇作家・演出家・俳優である野田秀樹氏は、2012年に上演した『THE BEE』(野田秀樹作・演出、コリン・ティーバン共同脚本)のパンフレットでこう書いている。
つまり、本稿本文に書いた『山鳥役の篠井英介が女形だから(略)だが、それが「幻視」であることが劇中で暴かれ』というのは、野田氏が指摘する『男を女に見立てる』ことを逆手に取ったものである。
劇場から三軒茶屋の駅に向かうまでの間、霞がかったところを歩いているような覚束ない感覚に囚われた。
開演前の舞台は幕は下りていなかったが、霞がかかったような感じではっきりとは見えなかった。
開演するとその霞は消えて舞台や俳優がはっきり見えたが、私はそのはっきりした舞台や俳優を観ていたのだろうか。
私は誰を観たのだろう? 誰の話を聞いたのだろう?
私は駅に向かっているはずだが、もしかしたらその先には山鳥たちが暮らす小屋があるのではないか?
そんな不思議な不安は、渋谷駅の雑踏に足を踏み入れた瞬間に消えた。
すると今度は、「街」に対する憎しみみたいなものが湧き上がってきた。
人魂はまだ、私の周りにいるのかもしれない。