映画『ナミビアの砂漠』を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)

人の感情は言葉で表せるか?
人が思っていることは言葉で表せるか?
人が思っていることと、今いる現状とは一致しているのか?

ここでは説明しないが監督についても主演俳優についても作品自体についても「伝説・逸話」があり、期待値爆上がりの映画『ナミビアの砂漠』(山中瑤子監督、2024年。以下、本作)は、「別の意味で」観客の期待を裏切る作品だった。

世の中も、人生も全部つまらない。やり場のない感情を抱いたまま毎日を生きている、21歳のカナ(河合優実)。
優しいけど退屈なホンダ(寛一郎)から自信家で刺激的なハヤシ(金子大地)に乗り換えて、新しい生活を始めてみたが、次第にカナは自分自身に追い詰められていく。もがき、ぶつかり、彼女は自分の居場所を見つけることができるのだろうか・・・?

本作公式サイト「Story」
(俳優名は引用者が追記)

『観客の期待を裏切る』などと誤解を招く表現を使ったが、恐らく本作は観客の感情と共振する(観客の多くは「共感した」と言うような)作りに見せかけて、実はそうじゃない……つまり、「共感」とは観客が「カナはこう思っているに違いない」と勝手に誤解している(何故ならカナは自分の感情を一切言葉にしていないのだから)ことから起こるが、実はカナはそんなことは思っていない、という意味で『期待を裏切』っている。

それは冒頭から示唆される。
高校生の時の友人が自殺した、そのことをカナに伝えるイチカ(新谷ゆづみ)はショックを受けている。が、カナは「ノーパンしゃぶしゃぶ」に気を取られ、イチカの話が頭に入ってこない。
いや違う。
話が頭に入ってこないのは、『友達が自殺してイチカもショックを受けているんだから、ここは"悲しむべき”なんだろうな。でも……』という思いが頭の中を埋め尽くしているためだ。
そして冒頭のカナの思いは、しばらくして観客に手渡される(と優しいものではなくぶん投げられる)。

ホンダが出張に行き、一人部屋の中を歩きながら彼が作り置きしてくれていたものを食べるシーン。
俯瞰でカナを撮っていたカメラが、そのまま彼女の顔にズームしてゆく。
この演出は一般的に対象人物の内面に迫るときに使われる。
彼女は何かを考えています、さて、何を考えているでしょう? と。

恐らくカナは何も考えていない。
というか、このシーンに適切なことは考えていない、と言うべきかもしれない。
普段の我々だってきっとそうだ。
『あの人の笑い顔、変』と思いながら笑っていたり、引率者以外に知り合いがいないバーベキューで独りポツンといるとき『缶ビール何残ってたっけ?まだ肉、食べられるかなぁ』とか。

なのに我々は、映画の登場人物の気持ちを勝手に推し量って、勝手に共感したり理解したりする。
「推し量る」と書いたが、我々は「自由に」推し量っているわけではない。
気の遠くなるような人類の歴史の中で世界中で培われた「ケーススタディー」に基づいて、その状況(シーンや展開)に応じた「最も正解に近いもの」を選んでいるに過ぎない。
ちなみに私は、ホンダが道にうずくまるシーンを観ながら、『みちに倒れて だれかの名を 呼び続けたことが ありますか』(中島みゆき「わかれうた」(1977年))………………について、『若い頃そんなこと絶対ありえへんと思ってたけど大人になったらあるよ』と発言した古田新太氏を思い出していた(2020年5月24日放送 テレビ朝日「関ジャム 鬼龍院翔プレゼンツ!中島みゆき失恋ソング特集」)

本作はとても暴力的な映画で、確かにカナとハヤシの壮絶なケンカは暴力的だがしかし、そのカナ(を通した山中監督)の怒りの矛先は、映画そのものと同時に、本作を観ている観客にも向けられている。
暴力的なのは山中監督や作品ではなく、それを観ている我々観客であり、そう観させるように躾けた「映画」である、と。

カナ(=山中監督)は挑発する。
『映画を観るなんて時間の無駄』
『どのツラ下げてものづくりとかしてんの? あんたみたいな男が作ったもんが世界に溢れちゃったら、毒じゃん。世の中悪くしてるよ』
そしてカナは怒る。
『勝手に推し量るなよ』
『わかるって、何が?』

だから、本作は意味深な顔のアップや無言のシーンが意図的に多用され、我々観客はその「罠」にかかって、その人物の気持ちを推し量ろうとしてしまう。
しかし、そこに映された人物たちは、全然違うことを考えているに違いない。
カウンセラー(渋谷采都)も言うではないか。
『心の中だけなら何を思うのも自由』と。
登場人物たちが『何を思うのも自由』であるのと同様、観客だって『何を思うのも自由』のはずなのに、何故「正解」を選び出して、それを押し付けようとするのか(これが「暴力」でなくて何だろう)?
大体、遠山ひかり(唐田えりか)が言うように「パンダアリ」も「うみねこ」も言葉のイメージと違うし(実体→名前(言葉)に変換できるが、しかしそこから名前(言葉)→実体に戻すことができるとは限らない)。

山中監督は、オムニバス映画『21世紀の女の子』(2018年)に収録された短篇『回転てん子とどりーむ母ちゃん』という自身が監督した作品について、パンフレットにこう寄稿している。

「回転てん子とどりーむ母ちゃん」。わけわかんないよね。監督はわたしで、用意していた言葉はあるはずなんだけど、言葉にしてみるとどれもなんか違う、みたいなやつ。批評してよ。批評性ないか。(略)ことばがわたしやあなたをなくす。近頃は頻繁になくす。おかげでわたしたちはいつでも瀕死。

『ことばがわたしやあなたをなくす』(だから、階段を転げ落ちて言葉をなくしたことにより、カナとハヤシは通じ合う)のだとしたら、『わたしやあなた』を取り戻すのは『身体』でしかない(しかもそれは「ありのままの生身」でなければならない。だからカナは勤めていた脱毛サロンで本音を吐いてしまう)。
だから、『あみこ』(2017年)も走る、駅でダンスを踊る、ラストシーンは暴力だ。
カナも走る、路上で側転する、ハヤシと壮絶なケンカをする。
『回転てん子~』は、『セックスの後に男がティッシュをくれない問題』が議論される(物語は冒頭、中国人女性が中国語で何か喋ったあと唐突にマシンガンをぶっ放したりする)。

かように本作、いや、全ての山中作品は、「言葉にする」というか「安易に言葉を当て嵌める」ことを拒否する。
だから恐らく(というのは私はそういった試みをしないからだが)、ストーリーを「言葉」で説明してみても、それを読んでどういう物語かを理解することは不可能だろう。
さらに言えば、感想を書くのも難しいだろう。何故なら、上述したとおり、カナは『勝手に推し量る』ことに、『わかるって言われる』ことに怒っているのだから。

そういう意味で、本作は『観客の期待を裏切』っている。

メモ

映画『ナミビアの砂漠』
2024年9月7日。@TOHOシネマズ日本橋(公開舞台挨拶あり)

公開舞台挨拶に登壇した山中監督は『ぼーっとできない性格でいつも何か考えている』と語っていたが、そうは思えない「はんなり」した喋り方だったのが印象的だった。
河合優実さんが、マスコミ向けの写真・動画撮影で色々とお茶目なポーズをとっていたのも印象的だった。
『少女は卒業しない』(中川駿監督、2023年)、『あんのこと』(入江悠監督、2024年)で彼女の舞台挨拶を拝見しているが、作品のカラーもあって、こんなにはしゃいではいなかった。
はしゃいでいたのは、舞台挨拶で寛一郎さんが『この舞台挨拶が、ここまで数カ月間のプロモーションの最後で寂しい』と発言して、登壇者全員がしんみりした、というのも関係するかもしれないが、いずれにせよ、この映画が「俳優・河合優実」にとって大事な作品だということがひしひしと伝わってきた。

その「俳優・河合優実」が誕生するきっかけとなった映画『あみこ』は、やはり「俳優・河合優実」が誕生するきっかけとなった映画館「ポレポレ東中野」で、2024年9月28日~10月11日まで、レイトショーでのリバイバル上映が予定されている

余談だが、本文で『心の中だけなら何を思うのも自由』というカウンセラーのセリフを引用したが、私が本作を観ながら思ったことは、「ビート板はハダシのために身を引いたんだっけ。で、付き合ったらこのザマか」(『サマーフィルムにのって』(松本壮史監督、2021年))とか「『回転てん子~』と『離ればなれの花々へ』(山戸結希監督)の邂逅だ」(『21世紀の女の子』)とか「自分の思いを言葉にしないのは白城も同じだった」(『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(金子由里奈監督、2023年))とか「王国だなぁ」(『王国(あるいはその家について)』(草野なつか監督、2023年))とか、「この前はカナ一人じゃなくて大勢の住民の前で説明していたな」(『悪は存在しない』(濱口竜介監督、2023年))とか……
こうやって観ている映画から違う映画を思い出してしまって物語に集中していない私は、ストーリーを文章にすることができない、から試みないのだ。



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