何かを見れば(聞けば)何かを思い出す~映画『すべての夜を思いだす』を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)
数年前まで、多摩センターにある会社に勤めていた。
サンリオピューロランドもある多摩センターには、京王線、小田急線(何故か永山から並行して走っている)の他、多摩都市モノレールも乗り入れている。
多摩地区を南北に貫くモノレールの最南端の終着駅である多摩センター駅はしかし、駅舎を過ぎたところまでレールが延び、不自然なところで終わっている。もっと不思議なのは北側の終着駅・上北台で、西武拝島線と連絡する玉川上水駅を一つ行き過ぎ、ただの住宅街で終わっているのだ。
こんな不思議な状態になっているのは、何でも当初は、南は東京都町田市から北は埼玉県所沢市の西武ドームまでを結ぶ計画だったからだそう(調べてないから私の思い違いかもしれないと予め断っておく)。
何故こんな書き出しになったかというと、映画『すべての夜を思いだす』(清原惟監督、2022年。2024年日本公開。以下、本作)のエンドロールのクレジットに作家の滝口悠生氏の名前を見つけたからで、彼は埼玉県入間市の出身で、私は徒歩1分で入間市に入ってしまう所沢市の端っこから多摩センターの職場に通っていたから(電車の乗り換えが煩雑過ぎるので数年で東京に引っ越した。その数年後に退職した)。
職場が多摩センターにあっただけで、しかも昼食も出勤時にコンビニで買ったパンを齧って外に出なかったので、だから、多摩ニュータウンの日常というものに全く触れたことがない。
家族や恋人がいないので、サンリオピューロランドにも行ったことがない。
先述したとおりモノレールを使っていたので、もちろん「東京都埋蔵文化センター」も知らない(今度「風呂上がりの土偶」を見に行ってみようと思う)。
唯一といっていい会社以外の接点は、(会社が移転するまで知らなかった)毎年11月に開催される大規模な映画祭(何しろ「その年度の映画賞のトップを飾る」というのが売り)である「TAMA CINEMA FORUM(TAMA映画祭)」で、だからその時期は、パルテノン多摩はもちろんベルブホール(永山公民館)に通い詰める。
一方、所沢では毎年春ごろに、ぴあフィルムフェスティバル(PFF)と共同で「(所沢)ミューズ・シネマ・セレクション」と題した数日間の映画祭のようなものを開催していた。
それはそうと、『すべての夜を思いだす』なんてタイトルの映画だと聞くと何となく、中年や老年に差しかかった主人公がかつての甘い・熱い・痛い、或いは切れ味鋭い刹那……みたいなものを振り返る、みたいなストーリーを想像したりする(私だけかもしれない)が、本作はまったくそうじゃない。
「あらすじ」にもあるとおり、本作は「街(土地)の記憶」がテーマだ、というか、誰が『すべての夜を思いだ』しているのかといえば、ズバリ、「街(土地)」ではないだろうか(本作公式サイトで清原監督にインタビューしている映画ライターの月永理絵氏は、2024年3月1日付朝日新聞夕刊の本作評で『この街自体が4人目の主人公ともいえる』と指摘している)。
清原監督は自らが手作りしているという趣向の凝ったパンフレットに記している。
「街(土地)の記憶」が意識されているのは、たとえば、人物を追っていたはずのカメラが不意に、人物がフレームアウトしてもなお、誰もいない風景(土地)を数秒間捉え続ける、というシーンが何度も出てくることからも明らかだ。
土偶もそうで、だから土地は4000年以上前のことを記憶していたりする。
人間というのはおかしなもので、何かを見たり聞いたりすると、それに関係することしないことなど諸々何かを連想(思いだ)してしまう。
「街(土地)」も日々、人間や自然の営みを見聞きしながら、色々思いだしているのだと想像してみる。
たとえば、知珠の誕生日は知らない家庭の子どもの誕生日を撮影したホームビデオ群(知らない人たちなのに、物凄く感情を持っていかれる)につながり、バースデーケーキの上のロウソクは夏と文(内田紅甘)の花火へと連想されていく。
早苗がリサイクルショップ(は、知珠がハローワークで紹介されたリサイクルセンターにつながる)で見つけたカップから、夏と文が修復した土器を想起する。
そして「街(土地)」は、二人の花火(と各々の思い出)から、そこに(永遠に)いない大の記憶とシンクロしてしまう(このシーン、一瞬何が起こったのかわからなかったが、わかった瞬間、全身に鳥肌が立った)。
シンクロといえば、本作でも印象に残るのは、知珠が突然踊り出し、それは独りダンスの練習をする夏の動きを真似ていて、ストーリーが夏へバトンタッチされることを明示するシーンだ。
映画研究者/評論家の北村匡平は児玉美月と共著の『彼女たちのまなざし 日本映画の女性作家』(フィルムアート社、2023年)の中で、こう評している。
この指摘は、本作においては女性(人間)だけでなく「街(土地)」にまで拡大し、3人の女性たちは、お互いだけでなく、歩いたり自転車に乗ったりといった『身体の運動』を通じて、「街(土地)」の記憶とシンクロする。
これはもしかしたら、この物語だけでなく、普段我々が感じていることなのではないか。
知らない土地に降り立ち少し歩いただけで、不意に「前にも来たことがあるんじゃないか」という想いに囚われたり、普段考えたり思いだしたりしないような記憶が蘇ったりすることがある。
それはもしかしたら、自分の記憶と「街(土地)」の記憶がシンクロしているのかもしれない。
冒頭で書いた滝口悠生氏が、「文學界」(文藝春秋) 2023年3月号の「特集 滝口悠生の日常」の中で、こんな発言をしている。
本作で『すべての夜を思いだ』しているのは「街(土地)」だ。
それは、そこじゃない、「映画館」だからこそわかる。
本作の音響設計は素晴らしい(黄永昌氏は、最近だと『彼方のうた』((杉田協士監督、2024年)も良かったが、街の音を上手く使う)ので勘違いしてしまうが、これは「人間が思っている"リアル"」ではなく「ハイパーリアル」だ。
何故なら、人間は無意識・自動的に聴き取る音を取捨選択、ボリューム調整していて、本作のように聞くことができないからで、つまり、(人間の営為を含めた)自然を取捨選択せず、そのままを記憶するのは「街(土地)」にしかできない。
「街(土地)」は人間が寝静まった深夜、すべての夜を思いだしながら、いつの間にか眠りに落ち、朝、怪しげな6人の若者が出す音楽とは言い難い「何か……音」で、叩き起こされるのだ。
メモ
映画『すべての夜を思いだす』
2024年3月2日。@ユーロスペース(公開舞台挨拶あり)
本文で「ミューズ・シネマ・セレクション」を想起したが、本作が第26回PFFスカラシップ作品であることだけが理由ではない。
「ミューズ~」のプログラムディレクターはPFFの荒木啓子氏で、彼女が今回の舞台挨拶の司会を務めていたからだ。
本稿を書きながら、知珠が「地図」にかかっていて、さらに「三人寄ればもんじゅの知恵」ではないか!と思い至って狂喜したのだが、「文殊」であって「文珠」ではなかった……
それはそうと……ここに書くか迷ったが、書かないわけにはいかないので書く。
清原監督は公開舞台挨拶冒頭、ユーロスペースの作品上映中止の件に言及した。彼女は、「自分もずっと考えていて、お客さんの中にもここ(ユーロスペース)に来るのを迷った方がいるかもしれません」と語った。
問題自体が非常にナイーブであり、それに加えて、こういったパブリックな場所に書くためには「ポリコレ」にも配慮しなければいけなくて、だから、自分の考えがそのまま書けるとは思えない。
それ以前に、私自身の考えがまとまっていない、どころか糸口さえも見いだせない状況だ。
難しいから考えない、ではなく、難しいからこそ考え続ける。
ひとりの観客として。