「あのころ、早稲田で」中野翠の闘争(追記)

2020年3月『三島由紀夫VS.東大全共闘 50年目の真実』という映画が公開され、1960年代後半の「学生運動」が、少しだけ再注目された感じがする。

その1960年代半ばに早稲田大学に入学した中野翠が、約半世紀前の自身を振り返った「青春記」が、『あのころ、早稲田で』(文春文庫)である。

この著書のために都合よく記憶やできごとを改竄したとは思わないが、それでも半世紀前の出来事を振り返っているため、それなりに「思い違い」や「後日譚を経験しての記憶の辻褄合わせ」、「時を経ての都合の良い記憶の改変」などはあるはずだが、その辺りを差し引いても、当時の気分や世相を十分体験できる。

中野自身が「あとがき」で、『大学の四年間というのは、よりにもよって、私の人生の中で最も思い出したくない日々だった』と書いてあるが、そのせいか文章の端々から「照れ」みたいなものが滲み出ていて、それが時代に関係ない普遍的な「青春記」として読める効果になっていると思う。

さて、「普遍的な青春記」として読める本書だが、60年代後半という、特別な「あのころ」も魅力的だ。
今回はその辺りを中心にしてみたい。
(以下、特別な記載がない限り、引用は文春文庫版の『あのころ、早稲田で』(2020年第1刷)による)

中野翠の「あのころ」の思想

早稲田大学志望時の中野は、「プロローグ」で、自身をこう紹介している。

高三の時、政経学部を選んだ理由は、左翼気分からだった。子どもの頃から右翼の人たちには嫌悪感と恐怖感を持っていた。

(P14「プロローグ」)

今の学生(だけじゃなくて一般の大人でも)には、このような思想はほとんどない。しかし、「あのころ」においては、上記のような思想を持っていることは決して特別なことではなかった。

中学校ではバスケットボール部に入ったのだけれど(略)。
三年生になってバスケットはあきらめて新聞部に入ってみた。(略)顧問のS先生は、大学を出たてだったか一年経っていたか、とにかく若い女の先生(国語担当)で下級生を担任していた。
教師と生徒という関係で、こう言うのもナンだが、S先生とは大いに気が合った。

S先生との会話や手紙のやりとりの中で、やっと知ったことだが、S先生は大学時代に六〇年安保反対闘争の渦中にあって、集会やデモに参加していたのだった。つまり左翼。それでも共産党員でもシンパ(同調者)でもなかった。そうか、左翼でもいろいろな流派(?)があるのね、と知った。

高校時代は(略)、担任教師は三年間N先生(略)だった。共産党員ではないかもしれないがシンパであることは歴然としていた。(略)
私が大の苦手としていた数学を担当していたM先生(女性)は一家をあげての共産党員だった。

(P18-P20「プロローグ」)

周りに共産党に近い思想を持つ教師がいた環境の中、結局、中野は『大いに気が合った』S先生に思想的影響を受けることになる。

思想と大学生活のハザマで

前述したとおり、「あのころ」の大学生は右か左かは置いておいて、とにかく何らかの「思想」を持っていた。というより、「持たなければならない」と思っていたといったところかもしれない。
しかし、当然と言えば当然だが、20歳前後の若者の持つ「思想」はどうしたって「借り物の服」のようで、身体にフィットしない。
また、時代も戦後20年が経ち、高度経済成長で日に日に実感として豊かになっていく。平和だ。家族だっているし、一家団欒もありふれた光景だ。
すでに「戦争を知らない子どもたち」である「あのころ」の若者は、豊かさと平和という快楽を当たり前に享受できる環境」にあって、実際のところ、「学生運動」に対する実感は希薄だったのではないか。
しかし、時代は「学生運動というストイックな空気への参加」が求められており、そのハザマで、中野もまた悩むことになる。

ところが私は……大学に行けばストライキ、ピケ、バリケード、泊まり込み、警察および機動隊との乱闘、逮捕、指名手配……といった荒々しさに包まれるのだが、家に帰れば、何事もない。ありふれた、おだやかな、変わらぬ日常生活だ。非常事態の大学と、平常そのものの家庭。その二つの世界を、毎日毎日、まるで8の字を描くように私は往還しているのだった。
家を出たいな、一人暮らしをしたいな、と思った。(略)
そんなことを思いながらも、私は家を出ることができなかった。(略)
仕方ない。私は当分、このハンパさの中で生きるしかないんだ、8の字のように二つの世界を行きつ戻りつする中で生きてゆくしかないんだ、と思った。

(P75-P76「1966年」)

高野悦子と1970年前後の京都

ここで参考に、と、約10年ぶりくらいに本棚から高野悦子の『二十歳の原点』(新潮文庫。手元にあるのは、平成元年 第二十九刷)を引っ張り出してみた(ちなみに高野悦子「著」と書かないのは、当時「他人には絶対読まれない」ことを前提に書かれた「日記」を彼女の死後、書籍にしたため)。

びっくりした。
高野悦子は、中野翠より年下だった。中野が早稲田大学三年生のとき、高野は京都・立命館大学に入学している。
最初に読んだ時からなのか、中野の著書を読んで誤解してしまったのか、とにかく、私は今回『二十歳の原点』を開くまで、高野は60年安保反対闘争の人だと思い込んでいた。
それほど、中野と高野の大学生活は違い過ぎていた。
もちろん、中野の方が「半世紀前の自身を振り返った著書」であるのに対し、高野の方は「絶対誰にも読まれないことを前提にした日記」という違いは大きく、一概に比較できるものではないが…
とりあえず、『二十歳の原点』をパラパラと捲ってみる。

民青を支持したとしても、反民を支持したとしても、どっちにしろ批判と非難はうける。絶対に正しく、絶対に誤っているということはないのだ。どっちかを支持しなくては行動できないのかもしれないが。
この言葉の中に、非難をうけないように、勢力のある方についていこうという、ずるい態度があるのだ。私は小学校、中学、高校と、それぞれの生活環境に順応ー非難をうけないようーしながら生きてきた。立命という大学に入って学生運動に関心をもつのも、その環境に順応しようという一面があるのではないか。大事なことは、「私」がどう感じ、どう考えたかということではないのか。(「一月二十三日(木)」)

下宿を変えることにしよう。留置場に入れられたら原田さんのような下宿では迷惑をかけるからである。原田さんは全く居心地よい下宿である。独りで生活してみようと思う。学生アパートよりは、普通のアパートの方がよい。それに友達のいない所がよい。だけど寂しいし、きびしいだろうなあ。
(「二月十二日」)

(高野悦子『二十歳の原点』。引用者注 上記いずれも 1969年の日記)

確かに中野の著書でも1968年頃から「学園紛争」が、全国の大学で勃発していると書かれており、高野がいた立命館大学でも1968年12月に、学園新聞社問題をめぐって学内ゲバが発生(『二十歳の原点』巻末、高野三郎編「高野悦子略歴」より)し、上記日記もこれに端を発した運動のさなかに書かれたものである。
(なお、ここでは、ベトナム戦争や安保といった社会問題やイデオロギーをベースにしたものを「学生運動」、学校運営や自治、校則などの是正をベースにしたものを「学園紛争」と呼ぶことにする)

こんなに高野が自分を追い込んでいる(高野悦子は1969年6月24日、鉄道自殺)のに対し、中野は1968年に当時人気のクイズ番組『アップダウンクイズ』に出場したり、テレビドラマ版の『男はつらいよ』を家族で楽しんでいたりする。
どちらが良いとか悪いとかではなく、どちらも「あのころ」の大学生の生活だった(中野だって、当時もし日記をつけていたら、高野と同じような苦悶が綴られていたかもしれない)。

余談が止まらなくなってきているが、もうひとつだけ。
ちなみに、「学生運動」は後で中野の文章も引用するが、しだいに過激化・先鋭化し、やがて地下へ潜ってしまう(顛末については後述)。「学園紛争」についても、1971年頃を境に、プッツリと消えてしまったようだ。
堀井憲一郎著『1971年の悪霊』(角川新書)による述懐が興味深い。
堀井が1973年に入学した京都の高校では、彼が入学する2年前(1971年)に学園紛争が起こった。

1971年、京都の高校で紛争があった。
7月の夏の一日、深夜に高校へ侵入した生徒たちによって、教務室が封鎖された。
翌日に予定されていた期末試験を粉砕するためだった。テストは延期されたが、翌日の夕刻に機動隊が導入され、封鎖していた生徒は逮捕された。
(略)
1971年はぼくたちの高校ができてまだ5年目、そのときの三年生が五期生である。
創立直後から、「いい大学に多くの合格者を出す受験校」を目指していた。いい大学とは具体的に言うなら「京都大学」である。(略)
カリキュラムも、京都大学合格を目指した露骨な受験教育だった。
(略)たとえば学年全員の模擬テストの成績が1番から220番まで、順に貼られていたという。
また能力別クラスも作られ、それは学期ごとの成績でクラスが変えられた。(略)。学期ごとにクラスが移るのは、かなり露骨な能力主義である。
それは非人間的ではないか、という問いかけがあった。たしかにあまりやさしい教育現場とは言えない。

1971年の高校紛争は、こういう「露骨な競争主義教育」に対しての抗議、という側面が強かった。
1973年の一年生は、そんなことも知らなかった。

(堀井憲一郎著『1971年の悪霊』(角川新書)、「第一章 1971年、京都の高校で紛争のあった夏」
※太字は引用者)

だいたいで言えば、「かつてこの高校で"フンソウ"と呼ばれるものがあったらしい。先輩の何人かが、"何か"をしたらしいので、"機動隊が導入され"それは解決された」、これぐらいしかわかっていなかった。ものすごく絞っていえば「機動隊が導入された」ということしか知らなかったとも言える。
こうやって書いてみると、絶望的な断絶があったことがわかる。

(同上)

すぐ上の世代と『絶望的な断絶』を感じていた堀井にとっての「学生運動」とは。

学生運動の時代は、「思想」の時代だった。
「行動」の時代だったという印象を持たれているかもしれないが、それは「思想」が前提にあっての行動だった。

(同上)

『思想が前提』だった学生運動がエスカレートし、やがて「行動が前提」になっていく中で、大多数の学生が運動に見切りをつけて離れていった(もちろん「大学卒業」という現実的な理由が大きいが)。残った者たちは、前述のとおり、過激化・先鋭化し、地下へ潜っていく。

「学生運動」に対する中野の理解

ここで漸く、『あのころ、早稲田で』に戻る。
早稲田大学の学生として「学生運動」を経験した、中野自身は、運動についてどう理解していたのか?

全国の大学に吹き荒れた闘争の中で、ベビーブーマーである学生たちは、大人たちを試していた-というところも多分にあったような気がしてならない。「戦争を知らない子どもたち」である学生たちが、戦争を知る父親世代にケンカをふっかけて、その対応のしかたを試してみた-。そういう側面もあったように思う。
他の人はどうだかわからないけれど、私としては大学側(戦争体験者である父親世代)が学生たちに対して、どういう形で立ちはだかってくるか?ということに関心があった。

(P84-85「1966年」)

つまり中野の理解では、「学校という『小さな社会』にいる(素性の知れた父親のような存在の)大人たちを相手に反抗してみただけで、(未知の大人が相手の)本当の『大きな社会』を動かそうという運動ではなかった」、つまり「学園紛争」のイメージが強いということになる(私が誤読しているのかもしれないが)。

(2021.01.07 追記)
高野悦子の『二十歳の原点』を軽くではあるが一通り読み返してみて、中野の理解は間違っていないように思えた。
高野もここでいう「学生運動」をやっているつもりになっているが、日記の文面からは活動/思想的には「学園紛争」のそれであるように思える。
ただし、この混乱は高野のせいではなく、「学園紛争」に機動隊という「国家権力」が介入し、それと直に対峙した経験から来るものだと思う。なにせ、「学校」を相手にしているはずなのにそれらは姿を見せず、目の前に「実際の敵」として現れるのは「機動隊」なのだから。
高野の活動/思想が「学園紛争」のそれであるのは、例えば、アルバイトの記述に読み取れる。彼女は、無意識に「アルバイト」と「正社員」を区別している。「アルバイト」も「労働者」であることを自覚していないし、彼女が「労働者」とみなしている「正社員」を理解しようともしていない。
だから、アルバイト先でのストについても、正社員に団結を呼びかけるが、それは「同じ労働者としての視点」ではなく「学生運動側の視点」からでしかなく、結果、高野の呼びかけを正社員はまともに取り合わない。
そしてそれは高野だけの問題ではなく、だからこそその齟齬に気付かなかった一部の学生が先鋭化していったのでは……と、無理矢理、本文につながるような一文で、追記終わり。

そう理解して活動してきた中野は、地下に潜ってしまった「学生運動」の顛末について、かなりのショックを受ける。

ここでちょっと説明が必要だろう。私の世代にとっては一連の連合赤軍事件(七二年二月の「あさま山荘事件」、そして三月に発覚した「山岳ベース リンチ殺人事件」)は一大衝撃だったのだけれど、それより下の世代にとっては何が何やら…といった感じだと思う。
ごくごく簡単に説明すると、七〇年代に入った頃には学生運動は一般社会から遊離し、どんどん過激化、先鋭化、内向化して行った。その中で生まれた連合赤軍は軽井沢の保養施設「あさま山荘」に押し入り(略)
さらにその後、群馬の山中で次々と連合赤軍のメンバー十二人の遺体が土の中から発見された。
(略)
そうして驚愕の事実が明るみに出ることになる。リーダー格の森恒夫、永田洋子、坂口弘は「総括」の名のもとに同志たちをリンチし、殺害したり、自殺に追い込んでいたりしたのだった。
(略)
リンチ殺人事件は決定的だった。当時私はもう大学を卒業して出版社に勤めていたが、その報道に接して慄然となると同時に、「もうダメだな、何かが、どこかが、決定的にまちがっている」と痛感した。そのことも少しあって、会社を辞め、ヨーロッパ一人旅に出た(略)

 (P101-103「1966年」)

そんな中野は、1994年発行の『全共闘白書』(全共闘白書編集委員会編、新潮社)に対しても手厳しい。

一九九四年に刊行された『全共闘白書』(新潮社)は文字通り全国の学生運動体験者へのアンケート集。
(略)
余談になるが、この『全共闘白書』は私にとって、あんまり好もしい読みものではなかった。一番のポイントは、負けを認めていない人が多いところだった(だからこそアンケートに回答したのだろう。回答を拒否した多くの人びとの思いも察しなければならない。アンケートは四千九百六十二通発送され、回答を寄せたのは、わずかに五百二十六通だったというのだから)。
何しろ青春時代のことだから、全共闘運動を美化したいという気持ちはわかるけれど、それでも現実的に、醒めた眼で全共闘運動を見直せば、「負けた」としか思えないものだったのではないか?あの運動の先にあったものは、世にもおぞましい「連合赤軍事件」だったのだから。
(略)
そんな疑問や迷いは、内心、大学卒業後にもボンヤリとではあったものの、連合赤軍の七二年二月の「あさま山荘事件」はまだしも、三月に発覚した「山岳ベース リンチ殺人事件」には決定的なショックを受けた。ハッキリと「負けた」と思った。(略)なぜか「決定的に負けた」と思ったのだ。大きなククリで言えば、同じ左翼学生の一人として、そう思ったのだ。「大人たちに対して恥ずかしい」という気持ちもあった。
なぜ負けたのか?どこがどう間違えていたのか?
(略)
『全共闘白書』の回答者の多くは、連赤事件に関してショックを感じているふうには思えなかった。違うセクトだから…というふうに割り切っているのかもしれない。私には、そういう割り切りかたはできなかった。六〇年代後半の「若者たちの反乱」は、大きな構図で見れば、「戦争を知る大人たち」VS.「戦争を知らない子どもたち」の激突でもあったのだから。
『全共闘白書』で胸を打たれたのは、日大闘争の秋田明大の回答だ。「生活」とのたたかいに苦しみ、日大闘争に関して何の感傷も抱いていない。読んでいて辛かったけれど、その正直さは好もしいものだった。

(P223-227「後日談いくつか」)

手元にあった1994年発行の『全共闘白書』で早稲田大学在籍中に学生運動に携わった人のアンケートを見てみる。
そこに「運動を離れた主因」という項目がある。
「内ゲバ」、「安田講堂陥落」などもあるが、幾人かは「連合赤軍事件」を挙げている(断っておくが、あくまでも「早稲田大学」の項に書かれた回答であって、『全共闘白書』全体を指しているわけではなく、中野の理解が違っていると言いたいわけではない)。その中にあって「愛」「カケオチ」という回答は、微笑ましさすら感じさせる。
中野も挙げている「日大闘争の秋田明大の回答」だが、少し引用する。

6 運動と人生観:私自身であったような気がします。
8 元活動家の沈黙:その方が正解な気がする。
9 運動を離れた主因:別にないが強いて言えば生活。
73 ぜひ発言したいこと:(略)私(秋田明大)は昔、一人の日大生として全共闘運動に参加致しました。戦いつかれ、そして自己の能力のなさからか自己分裂を起こし、現在に至っております。現在はすべての物が集約・集中され、思想も頭脳もいらないコンピューター人間が必要とされているのかもしれません。過去の私も私、現在の私も私、できうるなら、どんなブザマな生活であろうと、私自身であり続けたいと想っております。

(『全共闘白書』P248-249)

おわりに

当時の若者文化や大学生活といったものが生き生きと描写された「青春記」である、中野翠著『あのころ、早稲田で』の中から、学生運動を軸に引用してみた。
学生運動は日本では、とうに忘れ去られた過去のものかもしれないが、世界を見渡すと、若者による社会運動は現代でも起こっている。
本書を読みながら、たとえば、現代の香港の若者たちのことを想像してみると、世界というものの見え方が違ってくるかもしれない。


(2021.05.08) 続編のようなものを書いた。


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