「映画」は『あの頃。』の記録装置だ~テアトル新宿・20代の太賀と仲野太賀オールナイト特集『あの頃。』『ほとりの朔子』『南瓜とマヨネーズ』~

テアトル新宿で開催された『20代の太賀と仲野太賀オールナイト特集』の3本立てを観ながら、改めて「映画」という媒体は『あの頃。』を記録する装置だ、と思い知った(以下、当日の上映順)。

『あの頃。』(今泉力哉監督、2021年)

実際の松浦亜弥のPV、石川梨華の卒コン映像などがふんだんに使われているこの映画には、まさに2004年~05年の『あの頃。』が詰まっている。
と同時に、私自身は実際に映画館で観た2021年も想起された。
だから、その時の拙稿に書いた、仲野演じるコズミンの生前葬のシーンでやっぱり泣いたのは、その影響も、もちろんある。

バイトに明け暮れ、好きで始めたはずのバンド活動もままならず、楽しいことなどなにひとつなく、うだつの上がらない日々を送っていたつるぎ(松坂桃李)。そんな様子を心配した友人・佐伯から「これ見て元気出しや」とDVDを渡される。何気なく再生すると、そこに映し出されたのは「♡桃色片想い♡」を歌って踊るアイドル・松浦亜弥の姿だった。思わず画面に釘付けになり、テレビのボリュームを上げる劔。弾けるような笑顔、くるくると変わる表情や可愛らしいダンス…圧倒的なアイドルとしての輝きに、自然と涙が溢れてくる。すぐさま家を飛び出し向かったCDショップで、ハロー!プロジェクトに彩られたコーナーを劔が物色していると、店員のナカウチが声を掛けてきた。ナカウチに手渡されたイベント告知のチラシが、劔の人生を大きく変えていく―。

テアトル新宿サイト掲載の紹介文

今回、改めてスクリーンで観て思ったのは、この映画に感動するのは、彼らが「(人生において)しかるべき時期にしっかりとアイドルにハマって、しかるべき時期にちゃんと卒業した」からだ。
だから、劔たちは、『(卒業後の)今が楽しい』と言えるのだし、だからこそ『あの頃。はおもろかったなぁ』と振り返れるのであり、だから『何だか思い出しちゃって』泣けるのである。

そういえば、別の拙稿で書いたのだが、アイドルが「卒業」するようになったのは、恐らく「モーニング娘。」からではないか。

『ほとりの朔子』(深田晃司監督、2013年)

おぼろげに、仲野太賀(当時は太賀)がステージ上で何か喋っている記憶があって、今回観直して、これは2012年の『あの頃。』が収められていたのだと気づいた。

大学受験に失敗して浪人中の18歳の朔子(二階堂ふみ)は、叔母の海希江(鶴田真由)に誘われて夏の終わりの2週間を海辺の避暑地で過ごすことに。そこで朔子は海希江の古馴染みの兎吉(古舘寛治)、娘の辰子(杉野希妃)、 甥の孝史(太賀)と知り合う。福島から避難してきている同年代の孝史と、朔子は様々な場所で 顔を合わせて語り合い、二人の距離は徐々に縮っていく。孝史に次第に惹かれていき、 心揺れる朔子だったが…

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思い出したのは『津波』という言葉を聞いたときで、つまり、太賀演じる高校生・孝史は「原発の町」から『疎開』してきたのであり、私がおぼろげに覚えていたのは「原発の町から非難してきた"可哀想な人"」に(ほとんど「デート商法」に引っ掛けられたような形で)仕立て上げられた孝史が、原発反対集会(集会の発起人役がドキュメンタリー映画監督の想田和弘というのは、なかなか興味深い)の演壇に乗せられてしまうというシーンだったのだ。

この映画の『あの頃。』は、朔子・孝史の「ハイティーンの頃。」でもあり、子どもでなくなってしまったばかりに、「大人」の嫌な部分を(本当にイヤというほど)見せつけられてしまい、しかし子どもには戻れないから、やがて、というか、いつの間にか「大人」にどっぷりと浸かってしまっているだろうという(自身への)嫌悪感と諦観が入り交じる(これは、夏(休み)の終わりの「ジュブナイル」として、「一晩の家出」がイニシエーションとなるのは映画『スタンド・バイ・ミー』などと同じく、定番の設定)。

ちなみに、この映画公開から11年後、仲野太賀は二階堂ふみと舞台で共演した。

『南瓜とマヨネーズ』(冨永昌敬監督、2017年)

ツチダ(臼田あさ美)は同棲中の恋人・せいいち(太賀)のミュージシャンになる夢を叶えるため、内緒でキャバクラで働き、生活を支えていた。一方、曲が書けずスランプに陥ったせいいちは毎日仕事もせずにダラダラと過ごす日々。しかしツチダがキャバクラの客・安原(光石研)と愛人関係になり、生活費を稼いでいることを知ったせいいちは心を入れ替え働き始める。ツチダが今でも忘れられない昔の恋人・ハギオ(オダギリジョ-)と偶然の再会を果たしたのはそんな矢先だった。過去の思い出にしがみつくようにハギオにのめり込んでいくツチダだったが…。

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この映画で語られるのはもちろん、ツチダによる「ハギオ」との『あの頃。』であり、「せいいち」との『あの頃。』である。
本作を語るのが難しいのはツチダのハードな「ダメンズ(が故に「ダメンズ」に育て上げてしまう)体質」が看過できないレベルにあるからだが、しかし物語がそれを遥かに上回ってしまうことで、号泣なしにラストを迎えられなくなる。

最終盤、せいいちがシャワーを浴びながら別れ話を切り出す(何度観ても、いや、観過ぎたせいで、彼がシャワーを浴びに行ったところあたりから、私はパブロフの犬よろしく自動的に泣いてしまう。周りは女性客ばかりだったが、鼻を啜るオッサンをどう思ったか?というか、さっき観てきたばかりなのに、また本稿を書くためにビデオを見返していて、涙目でキーボードを打っている50代半ばのオッサンはどうなんだろう?)。

『なんでこんなになっちゃったんだろうな?』
風呂場のドアの向こう側から、くぐもった彼の呟きが聞こえる。
もう『あの頃。』には戻れない。
ツチダの涙は、『あの頃。』を終わらせるためのものだ。

劇中、ツチダはモノローグで繰り返す。
『私は(自分が)何をしているのかわからない』
確かにそうだったのかもしれない。
でも、せいいちだってハギオだって、彼女が何をして欲しかったのか、わかっていなかった。
彼女がせいいちにして欲しかったのは、本当にささやかなことだったに違いない。私は、2017年に映画館で観たときから、ずっとそう思ってきた。

最終盤、せいいちの易しい、優しい歌声を聞きながら(だからこそ、自己主張が強いギターではなく、優しいコンガでなくてはならなかった)、ツチダは静かに涙を流す。
彼女がして欲しかったこと。
それは、せいいちが自分だけのために、ささやかに易しい歌を、優しい声で歌ってくれること。
たったそれだけのことに、何故、せいいちは気づけなかったのか。

と、ここまで書いて気がついた。
せいいちは、ちゃんとわかっていたのではないか。でもできなかった。
彼女の前で頑なに歌わない自分自身に対して彼は思っていたのかもしれない。
『俺は(自分が)何をしているのかわからない』と。

『なんでこんなになっちゃったんだろうな?』
それはもしかしたら、彼が彼自身に呟いたのかもしれない。

『南瓜とマヨネーズ』の冨永昌敬監督は、『あの頃。』で脚本を務めている。
また、『あの頃。』を撮った今泉力哉監督は、映画公開から2カ月後に『街の上で』を公開させている。主演は、『南瓜~』で寺尾役を務めた若葉竜也(彼は『あの頃。』で西野役も務めている)で、劇中で魚喃キリコ漫画の聖地巡礼をする女性が登場する(ちなみに、『南瓜~』も『街の上で』も東京・下北沢が舞台となっている)。

だから、映画はフィルムに『あの頃。』が記録されているだけでなく、時間が経過した後に、当時の『あの頃。』を振り返ると、色んな繋がりが見えてくる、という意味での記録装置でもある。

メモ

odessa Midnight Movies vol.23 20代の太賀と仲野太賀AN特集
『あの頃。』『ほとりの朔子』『南瓜とマヨネーズ』
2024年11月23日。@テアトル新宿

終映は午前5時半過ぎ。この時期の東京はまだ暗いが、外国人と酔っ払いで新宿も街は、相変わらず賑やかだ。
そんな人たちの波をかいくぐりながら、改めて、仲野太賀(太賀)は、数々の名作映画で印象に残るキャラクターを演じてきたのだと思った。
それは、彼の確かな演技力の賜物だけれど、どうもそれだけではないようだ。

映画監督の西川美和氏は自作『すばらしき世界』(2021年)の制作過程を綴った『スクリーンで待っている』(小学館文庫、2024年)で、彼のことを『妖怪ひとたらし』と評している。

妖怪は私に取り憑くだけではなかった。撮影(引用者註:『すばらしき世界』で彼は「津乃田龍太郎」を演じている)に入ってからも、スタッフの多くが足音もなく忍び寄られからめ捕られていた。俳優が現場に入ると、普通は空気が揺れる。スタッフだけの時とは確実に密度が変わるのだ。その振動が不思議なほどになく、いつの間にか誰かの間に入ってこっちを見ている。「撮影隊の甥っ子」とでもいうべきか。まるでオムツの取れない子供のころから、私たちの現場にずっといたかのような。「お、太賀くん、来たね」と、みんな少しだけ目尻を下げる。役所(広司)さんもにやり。自分の出番のない日にも埼玉や神奈川のロケ地まで自家用車のハンドルを握ってやって来て、隅から役所さんの芝居を見ていたり、スタッフから機材や技術の話を聞いていたり、佇まいも雰囲気も、擬態する昆虫のように若いスタッフと同化して区別もつかず、助監督が「では次本番」と号令をかけると「ういーっ」と小気味よい掛け声を返したりしながら。
照明技師の宗賢次郎さんからは休日前に必ず飲みに誘われているし、若い役者に対しても敬語を使い、その動きに注文など決してつけないキャメラマンの笠松さんも、「太賀くん、そこだと顔がフレームから切れるんだ。キャメラこれ以上引けないんだよ」
「わかりました。こっちだとどうですか」
「うん、そこならいいよ」
「了解しました」
そういう調子。どうしてこの役者だけがこういうやりとりができる?


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