舞台『東京輪舞』を観て思った取り留めのないこと…(感想に非ず)

舞台『東京輪舞』(アルトゥル・シュニッツラー原作、山本卓卓すぐる作、杉原邦生演出。以下、本作)を観ながら、数日前にUPLINK吉祥寺での映画『全身小説家』上映後の原一男監督と荒井晴彦氏のトークイベントを思い出していた。
そのイベントの内容は主催者側が配信を断念せざるを得ないほどであり、だからもちろん本稿でも書かないが、お二人の話を聞きながら私は、2024年現在、映画『愛のコリーダ』(大島渚監督、1976年)ー実際の訴訟内容とは異なるが、印象的に云えば「性と芸術」についての論争ー以前の状況に戻ってしまったのではないかと思ったのだった。
もちろん、「(単に)男だから」とか「(俳優やスタッフを)使っている側」という立場を利用して、無理矢理強要するとか、さらには(性)暴力に至るのは断固として許されないことだ。
しかし、現在の議論(或いは「正論」)の中で、あらゆる性的シーンが「悪」のように捉えられてはいないだろうか。

そう考えたのは、本作の原作であるアルトゥル・シュニッツラー作『輪舞』は初演時にその性的シーンが問題となり裁判沙汰になったのと、『愛のコリーダ』の裁判沙汰が重なって見えたからだ(最終的に無罪となった後も、抗議が議論が絶えなかったのも似ている。もちろん、賛同者やフォロワーも多かったことも然り)。

さらに、上記で「2024年現在」と書いたのは、本作パンフレットに2001年にTPTが上演した『ブルールーム』(『輪舞』の翻案版、デヴィッド・ルヴォー演出)に出演した秋山菜津子さんと内野聖陽氏の対談が収録されていて、そこでお二人が「舞台上で脱いだ」と証言しているからだ。
そこから20年以上が経った2024年の現在、脱ぐこと以前に喫煙シーンだって事前に断りのアナウンスが入る時世なのだから……

さて、ようやく本題に入ろうと思うが、本作は『ブルールーム』を山本卓卓が「現在の東京」に置き換えた物語で、全10章の短篇から(全てが「性愛」がテーマの「輪舞」として)構成された2人芝居だ。

「十代と配達員」「配達員と家事代行」「家事代行と息子」「息子と作家」「作家と夫」「夫とクィア」「クィアとインフルエンサー」「インフルエンサーと俳優」「俳優と社長」「社長と十代」
各章のタイトルを見ればわかるとおり、物語の片方が次の物語を継いでゆく構成になっていて、これらを全て高木雄也と清水くるみの2人で演じる。

背景と床には「東京」「トーキョー」「とうきょう」「TOKYO」と、4種類の「とうきょう」という文字で埋め尽くされている。
つまり、『東京輪舞』という物語の舞台は、現実の"東京"ではない。本当は同じ「東京」でも人によってイメージや感覚が違う、ということを表しているのかもしれないが、私は本作の「東京」は先の4種類の中にないのではないかと思っていた。
本作から私が想起した「東京」は「TOKIO」だ。
と言っても、旧ジャニーズの元人気グループのことではなく、印象的なボコーダボイスで始まるYMOの「TECHNOPOLIS」(1979年)の世界であり、沢田研二の「TOKIO」(糸井重里作詞、1980年)でもある。
つまりここでも「セックス」と同様、舞台から生々しさは排除されている(全ての物語の設定が地上から浮いていて(観客から見て)現実感に乏しく、また「芸術家」と「クィア」から「ドラッグ」、或いは「俳優の性的嗜好」というのも(物語として)ステレオタイプだ)。

といっても、物語自体がセックスをテーマとしており、各章には必ずそれを仄めかすシーンが用意されている。「仄めかす」というのはつまり、行為自体を隠すようにLEDディスプレイが上から降りてきて、そこに「行為を示す言葉」が表示されるのだ。
それにしても、「行為を示す言葉」というのはこんなにもあるのか、と驚いてしまう。「交尾」に始まり「セックス」「性交」……
もっと驚くのは、一般的な言葉であってもそれを想起してしまう人間の「行為」への興味の強さだ。たとえば「関係を持つ」……

言葉は組み替え可能だ。
舞台背景と床については説明したが、セットとして大きな役割を果たすのが、「輪舞(RONDE、英語表記)」を表す"R","O","N","D","E"という大きなオブジェで、これらが移動しながら、時に壁になったり通路になったりと役割を変化させていく。
言葉が組み替え可能なのは、このアルファベット5文字によるアナグラムになっていることからもわかる。

物語は最初、「配達員」によるゆきずりの出会いから始まり、「家事代行と息子」で助走をつけた物語が、続く「息子と作家」で一気に走り出す。

「配達員」によって「する→される」関係が男女共に起こったにも拘わらず、「息子」が「する→される=男→女」に固定してしまう。
「家事代行と息子」の行為は「させる→させられる」関係でもあり、「息子と作家」は一見逆のようでしかし、作家は自身が「男→女」の関係に縛られているーそれが「女」という存在であるーことに従属している。
それが過去の価値観でしかないことが、続く「作家と夫」で示唆される。
ピロートークのシーンのバックには、"RONDE"のアナグラムである"OR END"という文字が浮かんでいた(その顛末は「俳優と社長」で明らかになる)。

幕間を挟む形で「夫とクィア」が展開され、圧巻の二幕が始まる。

二幕が圧巻なのは、「しない性愛」から(クィアが軸となって)「役割」が反転(「RONDE」のオブジェも反転)してしまうことにあり、これこそが2024年に本作が上演される意義となる。
以降、舞台で何が起こっているのか混乱してしまった観客もいただろう。
その混乱は、冒頭からあった「する→される」関係が、「しない性愛」を選択したところで破壊され、以降、その破壊はジェンダー(男→女、またはその逆、ということすら)にまで至るからである(それは"OR END"によって予告されていた)。

『東京輪舞』という物語は、輪舞形式に則って円環が閉じる。
しかし単純に閉じたわけではない、というか、反転してしまった物語が単純に閉じられるわけがなく、つまり、「メビウスの輪」になっている。

Wikipediaによると、この「メビウスの輪」をセンターラインに沿って切ると倍の大きさの一つの輪になり、1/3のところで切ると倍の大きさの1つの輪と元の大きさの1つの輪がホップ絡み目状に絡まるのだそうだ。

どちらにしても関係は切れないが、2024年現在を生きる我々は、それが「男女関係」に限らないことを知っている。

メモ

舞台『東京輪舞』
2024年3月14日 ソワレ。@PARCO劇場

観劇日当日、札幌高裁が同性婚について、「両性の合意にのみに基づいて成立する」と定めた憲法24条1項を、日本で初めて「違憲」とする判決を下した。
本作での「婚姻」は「関係の一形態」ーもっと踏み込めば、上記訴訟が示すように「人為的な」ーに過ぎず、テーマは「愛とは何か」「愛に性別は関係あるか」であり、さらには「愛と性欲との折り合い」(「折り合い」がつかないからこそ、原作『輪舞』は裁判沙汰に発展したわけであるし、「人為的」にでも「婚姻」という関係を作らなければならなかった)とも言える。

本作開演前、近くの席の若い女性2人組が「ネタバレ」について話していた。それが本作のものかどうかはわからない、というかそもそも彼女たちが云う「ネタバレ」がどういうものかわからないが、ストーリーや結末を書くことを「ネタバレ」と称しているのだとして、しかし本作のテーマに「愛と性欲との折り合い」が含まれている以上、「ネタバレ」と称して書いているその文章は、ある意味において自身の「セックス観」が「バレ」てしまうことになるのではないだろうか、と、本稿を書きながら思った。
だから私は、それがバレないように意図的に外して書いている。

劇場からの帰り道、スペイン坂にある「一蘭」に並んでいるのは外国人だけだった。JR渋谷駅前のスクランブル交差点は、青になった瞬間にダッシュして、交差点の真ん中で写真を撮る外国人がたくさんいた。
本文で「物語の設定が地上から浮いていて(観客から見て)現実感に乏しく」と書いたが、それらの外国人はもしかしたら、そういった東京を現実に見ているのかもしれないな、と、ふと思った。


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