ストリート"アート"??(小説風)

 朝の通勤で最寄駅まで向かう途中、潰れてしまった商店の下りっぱなしのシャッターにスプレーで「絵」らしきものが描かれているのに気づいた。
 在りし日の商店は早朝は営業していなかったからシャッターが下りているのは通勤時の日常だった、じゃぁ帰りはどうだったかというとたぶん営業していただろうが今となってはどういう店だったか覚えていない、というか潰れる前はコロナ禍で商店は自粛していたのではなかったか、だからずっとシャッターは下りっぱなしで、その奥で自粛から廃業へと状況変化があったことに気づいたのはいつだったか覚えていない、人から聞いたのかもしれないが潰れた理由がコロナに関係していたかどうかすら覚えていない、聞いたのに忘れたのかそれとも人から聞いたということ自体記憶違いなのかもしれない。
 そんなわけだから、その「絵」(というより何かの「ロゴ」のように見える)がいつからあったのかそれとも昨晩のうちに描かれたものなのかまったくわからず、昨日はどうだったっけ? 記憶を辿ってみても昨日はどう歩いていたか思い出せない、どころか今しがたドアにちゃんと鍵を掛けたのかすら思い出せない。

 気づいたのはきっとそれが「絵」というか「ロゴ」としてちゃんと「意図して描かれた」ように見えるからで、ではスプレーで適当に落書きしただけのように見える「名前」や「文字」らしきものに「意図」がないかというとそれはわからない。

 我々は「意図して描かれた」ように見える「絵」らしきものを「アート」として捉えがちというか無理矢理「アートだと捉えよう」としている気がするが、では通勤路でない近くを走る幹線道路沿いの回転すし屋の壁に描かれた巨大なマグロやカツオは「アート」なのか?

 美術批評家の椹木さわらぎ野衣は『ある絵を見て、「うわ、なんてみにくい絵なんだろう」「こういう絵はもう二度と見たくない」「こんな絵を描いた人物は、きっとどこか変なのだ」といった反応をすることを、芸術は排除するべきではない』[*1]と言っているが、「排除するべきでない」は「スプレーで落書きされただけのようなものも芸術として認めよ」という意味ではない。

 誰かが認めれば「アート」になるかといえばそんなような気もするが、じゃぁ誰が認めれば「アート」になるのかは全くわからない、世界的権威を持つ認定機関や美術評論家が指名する仕組みには今のところなっていないようだし、将来なったとしても正しく機能するかわからない(ゴッホのように生前は全く見向きもされなかった例だってあるし)。

「"バンクシー"だっけ? すごい値段で落札されてるじゃん」
 アパートの上階に住むSさんはやはり独身で、2歳年上なだけなのにパソコン関連の知識が全くなく、変なメッセージ(ウィルス的なものじゃなくソフトのアップデート版への更新を要求するものだったり)が出たと言っては電話を掛けてきてその日はプリインストールされたソフトの試用期間終了に伴い単に正規有料版購入を促すものだが「お金を要求している」だけで不安に苛まれていた(彼は商店の「絵」には一週間ほど前に気づいたそうだがいつからあるかは知らなかった)。
 確かに「バンクシー」なる集団(?)の作品は、正規版ソフトの購入額が数千円というだけで不安になる我々からすると逆に桁が多すぎて現実感が掴めないような金額で落札されているがだからといって、それは「アート」なのか?

 画家の松井守男は自身の作品を『僕の子どもたち』[*2]と呼んだという、その感覚は「アート」という言葉に萎縮してしまう我々凡人にも理解できる謂わば「常識」のようにも思えるが、しかし彼の云う「子ども」とはよく例えられていてつまり人間の子ども同様、作品は必ずしも作者の意図に従うわけではなく思ったようには成長してくれもしないし何を考え何を主張しているのかすら完全には理解できないということは、同じく画家の大竹伸朗が『そもそも、作り出した作者が作品の一番の理解者とする前提自体が「常識」という名の煙幕にすぎない』[*3]と喝破している。

 大竹は『十万個の規格品の中にも一つだけ芸術作品が紛れ込むことが世の中にはある』[*3]と、『それを察することができるかどうかはそれを目にした人物の中で何かが起きるかどうかにかかる』[*3]、同じようなことは椹木も指摘しており「排除はしない」理由、それが『世間的にはネガティヴだとされるこうした感情も、もしかするとその人の心の奥底に眠り、ずっと押さえつけられていたなにかに気づき、それを解放するきっかけになるかもしれないから』[*1]。

 それはそれとして「ストリートアート」の作者らが自身の作品を「子ども」と思っているのか、「善良な市民(あるいは"常識人(笑)")」によって非難されたり消されたり破壊されたり撤去されたりという宿命を生まれながらに背負う「子ども」を産んでいるのか(よく作品を「産み落とす」と言うが、それは「ストリートアート」にも当て嵌まるのか)?

 そもそも「ストリートアート」と呼ばれているものと一般的に「アート」と了解されているものは、「観る側」ではなく「描く側」の意識の出自が全く異なっているのではないか?

 日本のグラフィティ・ライターの第一人者ともいえる大山エンリコイサムは、「ライティング(大山はストリートアートをそう呼ぶ)」は『自分とは異なるアルターエゴ』[*4]だと言う、アルターエゴだからこそストリートに名前が書き込まれるのだし、アルターエゴだからこそ書き込まれる名前は他人がつけたニックネームではなく自身でつけた「タグネーム」でなければならず、だから「産み落とす」のではなく「アバターを作る」という意識の方が大きいのではないか(もちろん大山は「タグネーム」が『身元を隠して警察の目を逃れるため』[*4]であるとも指摘している)。

 「ライティング」の誕生時期ははっきりしないが1970年代のニューヨークではないかと言われていて大山によれば、全く関係性のない複数の人間が同時多発的に『自分が生きてる現実が辛かったり、満足できない人たちが、もう一人の自分の名前を作ることで……想像して、それを電車の車体にかいて、幻視Envisionするっていう形で、街を読み替えていった』[*5]。
 この「同時多発的」とは「偶然の一致」でもあるのか「共時性シンクロニシティ」というのか、『この偶然の一致がなぜ起きるのか、ユングは人間の心の奥には、あらゆる人に共通の無意識の領域がある』という松永真理は、当時マーケットに"e"が頭についた名前の製品/サービスが多かったことにシンクロニシティを感じでも"e"ではなく"i"を使って自社サービスに「iモード」という名前をつけた[*6]。

 名前を書く理由としてその創始者の一人ともいわれているTAKI183は子どもの頃に見た人気テレビ番組、『怪傑ゾロ』の主人公であるヒーローが「悪役を倒した主人公が現場にZマークを残していく」ことになぞらえている『彼はみなに紛れているけど、誰も彼が本当は誰なのか知らないということに魅了されていた』[*4]。
 Zマークが「怪傑ゾロが悪人を倒した」コードであることを知っている者だけがその意味を理解でき喝采するのと同じで「ライティング」は常に『ライティング文化のアウトサイダーではなく、コードを共有したインサイダーに向けられていた』[*4]のでありつまり、「アート」の側から大竹や椹木が指す「何かが起きるかどうか」の対象は「(一般的な意味での)鑑賞者」ではないということだが、鑑賞者ではないとはいえその文脈だけを切り取れば「ストリートアート」とも言えなくもないが何かが起きるのは、「わかる人だけがわかる秘密のコード」を共有する鑑賞者ではない者たちが「読み替えの街」という一種のパラレルワールドとかメタバース的世界を「幻視」するからであり、それは果たして「アート」なのか?

「でもシャッターに描かれてるのは絵みたいなもので名前じゃないし」
 先日のお礼(メッセージを出したソフトだけじゃなくプリインストールされていた不要なソフトをアンインストールしたりウィルススキャンしてあげた)にと缶ビールを届けてくれたのは口実で最初からそのつもりだったらしく結局部屋に上がり込んでしまったSさんはマスク越しに言った(6缶パックの半分を自分で飲んだ彼はそれでも「他人ひとの部屋だから」と律儀に”マスク会食”していた)。

 「秘密のコード」が「善良な市民アウトサイダー」にわかるようになったのはそれが一般化したからではなく『アプローチがまったく異なっていた』[*4] キース・へリング(「あの人形みたいなのが並んでるヤツ?」)の影響ではないのか(知らんけど)。
『自分の名前ではなく、絵文字やコミックのような赤ん坊や犬のキャラクターで、地下鉄の車体ではなく、駅構内にシンプルにかかれていた。そのため多くの人の目に留まり、内容も理解されやすかった』[*4]。
 キースの出現が「ライティング」を「ストリートアート」に変貌させたのではないのか(知らんけど)。

「そういえばその店の裏手の時間貸し駐車場だったとこ、家建ててた」
 商店は通勤路にあるから毎日通るがその裏は必要がないので行ったことがないだから駐車場があったことすら知らないがSさんは、「最近の家はユニットで組まれているようで」とか何とか始まって「棟上げ」やら「もち投げ」やらとどうやら昔の木造建築の話をしているようだが、それを聞き流して「カプセル状の部屋」を想像していたのは少し前に『東京・銀座の集合住宅「中銀カプセルタワービル」の解体工事が進んでいる』[*7]と知ったからで、1972年に建築家・黒川紀章の設計で建てられた『前衛建築』で「新陳代謝メタボリズム」というコンセプトのもと『時代に応じて、生物の新陳代謝のように空間や設備を取り換える』[*7]ことができるものだったという『カプセルタワーは(コンセプトとして)最も明快な姿だったが、カプセルの着脱・交換は一度もなかった』[*7]。
 時代的には戦後のアート文化と結びついていたと思われるが実際に居住できる(していた)機能を有する建築は、果たして「アート」なのか?

 近代建築・都市計画史が専門の藤森照信は『人間が人間として生きてゆくうえで、その時の心や精神や意識にとってどうして建築は大切なのか』という問いに対し『建物を見てハッとしたり心の奥の方がムズムズしたり、柄にもなくしんみりした時のことを思い出してほしい』と答えている[*8]が、「アート」の側が云う『人物の中で何かが起きる』に通じているのか?

 荒川修作をWikipediaで検索すると『日本の美術家』と記載されているが、では彼が"建築"した「三鷹天命反転住宅」は「アート」なのか?
 独立研究者・森田真生は『その建築の見た目の奇抜さから、ともすると彼の建築は奇をてらったアート作品と誤解されることもあるが、生命の認知過程が身体を超えて環境に広がっているものだとしたら、環境を再構成することを通じて「生命をつくりなおし」てしまおうという荒川の企ては奇を衒ったアートと呼ぶにはあまりにも合理的である』[*9]と指摘している。

「岡本太郎の『太陽の塔』は?」
 Sさんの視線の先にはテレビに映った「太陽の塔」。
 その巨大さからしても芸術作品としてのオブジェというより建造物という方が正しいと思われる塔は当初計画になく岡本が突如計画にあった屋根を突き破る作品を作ると宣言してできたものだという[*10]。
 椹木の『排除すべきではない』という言葉は岡本の『芸術はうまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない』という考えを解説したものでもあった[*1]わけだが、東日本大震災の際に渋谷駅京王線とJR線をつなぐコンコースに掲げられた岡本の壁画「明日の神話」に原発事故を描いた絵をゲリラ的に付加した「Chim↑Pom↓」が批判された、このアート集団は「ここちよくあってはならない」という岡本の考えに従っただけではないかとも思うが『ゲリラ的に付加』する様子を収めた映像「LEVEL 7 feat.『明日の神話』」(2011年)は2022年に原美術館で開催された彼らの活動の歴史を振り返る個展で披露されたという[*11]。

 寝ると言って部屋を出ていくSさんを見送りながら、渋谷といえば区が増殖する「ストリートアート」への対処に苦慮しているというニュースを聞いたが「ストリートアート」が「アート」かという議論以前にそれを描いた人(たち)がそれらを「子どもを産み落とした」のか「アバターを作り出した」のかの議論が必要ではないかと考えていたがしかし、たとえ「子ども」だとしてもそれが公共物あるいは他人の所有物に描かれたものである以上その子を引き受ける親権生みの親(作者)にはなく、もし親権を得たいなら金銭等によって引き取るか金がなければ情に訴えるか、さもなければ岡本の「太陽の塔」のように「壊されない存在」を産むしかない。
 1970年の大阪万国博覧会の施設等は跡形もなく撤去された、いくら万博の象徴になったからとはいえ撤去されず21世紀を20年以上も過ぎた現在まで残されている「太陽の塔」……

 民俗学者・赤坂憲雄は言う。
『壊せなかったんですよ、太陽の塔』『怖かったんでしょ……だって、訳がわかんなくてさぁ。あんな……混沌としたもの』『「意味」とか読み取れないじゃないですか。理解できなかったし、反発したし、太郎を拒絶し始めた日本社会は』『けれども、あの太陽の塔だけは壊せなかった』『「お前は、あるいは今の社会は、それでいいのか?」とか「何が大事なのか、 人間にとって」「人間の本質は何か?」「一番大事なことは何か?」』『もう永遠の問いかけ……でしかない、太陽の塔というのは。1970年に持った意味と、今持っている意味は、全然違う』『太陽の塔も、きっと、「贈与」だったんですよ。あの訳のわからない、べらぼうなものを……我々は、「贈与」された』[*12]

 「ストリートアート」は「永遠の問いかけ」「未来への贈与」たりうるのだろうか、贈与を受け取っ(てしまっ)た未来人は「ストリートアートはアートか?」という2022年の問いかけにどう返してしてくれるだろうか。
 「贈与」ののち消費されたビール缶は握りつぶされゴミ箱へ入れられた。


本稿は、「渋谷区がストリートアートの対処に苦慮」といったネットニュースの見出し(本文は当然未読)から想起し、手持ちの本や資料からコラージュ的に引用した小説"風"フィクションのため、語り手とSさん、エピソード等は全て架空です。
初心に帰り、単にどこまで引用して文章にできるかに興味があっただけで、内容に筆者の主張を込めたものではありません。また、コラージュ的引用のため引用元の文脈・論旨とは異なる内容になっている旨、ご了承ください(引用部は原文ママで、改ざん等は行っていません)。


「#読書の秋2022」とちょっと主旨は違うかもしれないが、まぁ引用も読書のうちだろう、と勝手に解釈して、バックレて投稿。

引用

[*1] 椹木野衣著『感性は感動しない 美術の見方、批評の作法』(世界思想社、2018年)
[*2] 2022年7月9日付朝日新聞朝刊「惜別」
[*3] 大竹伸朗著『見えない音、聴こえない絵』(ちくま文庫、2022年)
[*4] 大山エンリコイサム著『ストリートアートの素顔 ニューヨーク・ライティング文化』(青土社、2020年)
[*5] 2018年1月15日放送 フジテレビ『白昼夢』
[*6] 松永真理著『iモード事件』(角川書店、2000年)
[*7] 2022年4月19日付朝日新聞朝刊
[*8] 藤森照信著『増補版 天下無双の建築学入門』(ちくま文庫、2019年)
[*9] 森田真生著『数学する身体』(新潮文庫、2018年)
[*10] 2022年7月27日放送 NHK総合『歴史探偵「岡本太郎と太陽の塔」』
[*11] 2022年4月19日付朝日新聞夕刊「Chim↑Pom↓ これからも異変 結成17年 活動総まとめ @森美術館」
[*12] 映画『太陽の塔』(関根光才監督、2018年)



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