映画『ふたごのユーとミー 忘れられない夏』を観ながら思い出した。漫画『CIPHER』、小説『ハッチとマーロウ』
映画『ふたごのユーとミー 忘れられない夏』(ワンウェーウ・ホンウィワット&ウェーウワン・ホンウィワット監督。タイ。2024年日本公開。以下、本作)を観ながら、色々なことを思い出していた。
恋をするって、相手に触れたいと思ったり、顔や仕草や匂い、話し方や癖を(半ば理想化した形で)思い出して、一人キュンとしたりすることだったな、とか、1970年生まれの私はこの双子と同じくらいの年齢の時に「30歳まで生きられないんだなぁ」と自身の運命について考えたなぁ、とか(その後、1986年にムーンライダーズが『DON'T TRUST OVER THIRTY(30歳以上を信じるな)』というアルバムを出した頃の私は多感な時期にあって、「あぁ、これで俺は嫌な30歳にならずに済むんだな」とシニカルを気取ってみたりもした。今考えると、恥ずかし過ぎる……)。
ユーとミーが「一体、どこからこんな双子を見つけてきたんだろう?」と思うほどそっくりで驚くのだが、それもそのはず、彼女たちはティティヤー・ジラポーンシンの2役だからで、それを知っていても、気になるのは最初だけで、物語に入ると全く気にならなくなる(最初「気になる」といっても、「どうやって撮って編集しているんだろう」といったテクニカルの問題で、つまり気になるのは「良く出来ている」証拠であって、「物語に入ると全く気にならなくなる」のは、本当に合成などのテクニカルな要素が表出しないのと、それを凌駕する魅力的な物語だからだ)。
マーク(アントニー・ブィサレー)を傷つけ、自分たちも傷つけあうことになったのは、中学生で世間知らず故に世間を舐め、『食べ放題のレストランだって、話題の恋愛映画だって、一人分の料金で二人分楽しんじゃう』といった、人を騙す、というより、人を試すゲームに興じた二人に「罰が当たった」からで、それは「因果応報」とも言うべきものだ。
私は本作を観ながら、冒頭に挙げたこと以外に、(日本の)少女漫画と少女向け小説を思い出していた。
少女漫画は、成田美奈子著『CIPHER』(白泉社、1985-90年。単行本全12巻)で、ちょうど本作の男女関係が入れ替わった物語だ。
舞台は1980年代のニューヨーク。
子役スターだった双子、兄のシヴァと弟のサイファ。
成長する間にサイファは引退、学校も中退してしまい、今はシヴァが俳優を続け、学校に通っている。
しかし実は、本作のユーとミーのように、そっくりなのを利用して、仕事も学校も交代しながら活動していた(2年間も!)が、ある時偶然、シヴァと同じ学校で彼に(スターとして)憧れる女子・アニスにバレてしまう。
理由を問い質すアニスにサイファが答える。
『まわりの連中も 今まで誰一人気づかなかった。おれたちに対する関心がその程度だったってことさ』
『あんた(アニス)が言うには、友達ってのは人に対する"最高の尊称"らしいけど、結局こんなもんなんだぜ』
アニスが激昂して反論する。
『そりゃちがう! それは、ばれないように、その程度のつきあいしかしてなかったからだ』
アニスは自身の信念を賭けて、二人を見分けるテストに挑むことになる。
その後、アニスはサイファと付き合うようになるが、シヴァはそれを応援しながらも、自身の気持ちを持て余していた(これがシヴァを巡る壮大な大河ドラマに発展する。是非、読んでいただきたい作品である)……というのも、本作のユーとミーとマークの三角?関係に通じている(ちなみに言えば、離婚を決断した両親が二人のどちらを引き取るか、についても、子どもの「選ばれなかった」という気持ちが親の真意と裏腹にある点でよく似ている)。
誤解して欲しくないのは、私はここで、これを持ち出して本作にケチをつけようとしているわけではないということだ。
双子の物語は、「自我」の問題を描きやすい面があるのだ。
つまり、実は双子の関係性は「社会」に相当しているが、当人たちは「一つ(一人)の人格」だと誤解していて(だから、『その程度のつきあいしかしてな』いことに気づかない、というか、それが問題だと認識できない)、だが、現実、一人ではなく二人なのだから、マークやアニスや両親たちから「識別」「選択」される立場にある。
逆に双子も、成長して「社会」に近づいていくうちに、好きな人や両親から「識別」「選択」されたい、という欲求(自我)が芽生え、「一人の人格」から「二人それぞれの人格・個性」へと分裂し、最終的に、双方と「訣別」してゆく。
そう、「二人は同じではいられない」のである。
その「訣別」を鮮やかに描き出したのが、青山七恵が著した少女向け小説『ハッチとマーロウ』(小学館文庫、2020年。お薦めの小説)である。
ハッチとマーロウは「(顔のほくろの位置が違うだけの)そっくりな双子の姉妹」だが、『11歳の誕生日に大人になることを余儀なくされ』る。
そして様々な体験を経た後、マーロウに「訣別」に至る決定的な事件が起きる。
その事件に立ち向かうマーロウは、こう誓う。
本作のユーとミーも『二人で話し合って』、それぞれの決断をする。
それが感動的なラストにつながるのだが、かように、「双子」というのは「イニシエーション的成長物語」の題材として普遍性を持つ。
とはいえ、本作が単に「物語の普遍性」の上に作られたものを超えた、圧倒的な説得力を観客に与えるのは、もちろん、本作を監督したワンウェーウ・ホンウィワットとウェーウワン・ホンウィワットが「双子姉妹」であるからだ。
メモ
映画『ふたごのユーとミー 忘れられない夏』
2024年7月24日。@新宿ピカデリー
「ノストラダムスの大予言」をも絡めた「Y2K問題」を扱った本作は、1999年から2000年を迎える瞬間で幕を閉じる。
冒頭に書いたように、大予言を元に「DON'T TRUST OVER THIRTY」などと悦に入っていた私は、『1999年の7の月に恐怖の大王が来』なかったことに拍子抜けしてしまった(まぁ、その頃にはほとんど信じてなくて、本作にもあるとおり「コンピュータシステムの2000年問題」の方が気になっていたことは確かだが)。
本作のエンディングでユーとミーが花火を見ていた頃、私は、東京・渋谷の(改装前の)PARCO劇場で、初日が2000年に向けてのカウントダウン公演となった『ボーイズ・タイム』(宮本亜門作・演出)を観ていた(この舞台、本作を鑑賞した20分後にTOHOシネマズ新宿で観た映画『化け猫あんずちゃん』で主役の「あんずちゃん」を演じた森山未來氏のデビュー作である)。
で、私は無事30歳になり、「『DON'T TRUST OVER THIRTY』とは言い得て妙だなぁ」と自分自身の事として実感し(ちなみに、そのアルバムをリリースしたムーンライダーズの鈴木慶一氏は、『化け猫あんずちゃん』で和尚さんの声を担当していた)、それから24年後の今でも、こうして映画や舞台を観続けている。
大予言が当たらなくて良かった、と、仕事を休んで朝の8時半から新宿の映画館で本作を観ながら、改めてホッとした次第である。