「ストリートアート」の入門書
大山エンリコイサムは自身の著書『ストリートアートの素顔 ニューヨーク・ライティング文化』(青土社。以下、本書)の中で、そう記している。
さて、上の引用にある「タキ」なる人物について、大山はこう紹介している。
その『ニューヨーク・タイムズ』が発売されたのが、1971年7月21日である。
私は、「ストリートアート」なるものについて全く無知である。最近話題の「バンクシー」のように路上に書かれた絵というか記号というか、そういったデザインのようなもののことであるというのは何となくわかるが、では路上などに描かれたそれらのもののどれが「ストリートアート」と呼ばれるもので、どれが「ただの落書き」だか、区別は全くつかない。
というか、大抵のものは「名前みたいなものが走り書き、または、変にデザイン化」されているだけの「ただの落書き」だと思っていた。
しかし、本書を読んで、それらのもの(全てではないが)には、ちゃんとした文化・文脈があり「ただの悪戯」ではない(繰り返すが全てではない)ことがわかって、少し驚いた。
本書について
本書は、自身もグラフィティ・ライターとして活動する大山エンリコイサム氏が、創成期である1970年代から現在に至るの流れの中で、キーパーソンと思われる12名のライターの評論を通じて、ニューヨークのストリートアート文化を紹介している(なお、本書ではストリートアートを「ライティング」と表記しているため、以下はそれに倣う)。
なお、彼は評論にあたり、既存の資料を参考にする以外に、できる限り本人とインタビュー(対面やEmailなど)を行ったという。
現在は、「バンクシー」の影響もあって、少しずつライティングについての書籍が出版されているようだが、それでも、このようなライティング文化そのものを扱うというのは珍しいのではないだろうか。また、本書はライティングの批評・解説本として非常に丁寧に書かれており、私のような全く無知な者でも比較的わかり易い。
大山自身については、後で紹介するとして、まずは、私の最初の印象である「名前みたいなものの走り書き」について、本書から引用していくことにする。
なぜ「名前」なのか?
ライティングにおいて名前を書いていくことは、「タグ」あるいは「ヒット」と呼ばれるらしい。
また、名前についても、一部のライターを除き、ほとんどが本名や(他人が付けた)ニックネームではなく、(自分で付けた)「タグネーム」であるという。
上記引用の太字部分の補足として、テレビ番組に出演した際の大山の発言も引用しておく。
さて、なぜ名前をかくのか。冒頭で紹介した「タキ(TAKI183)」の発言が興味深い。彼は、大山とのインタビューにおいて、子供の頃に見た人気テレビ番組『怪傑ゾロ』に言及する。このメキシコを舞台としたヒーローもののテレビドラマは、「悪役を倒した主人公が現場にZマークを残していく」のである。
彼のその発言を受け、大山も『匿名性。イニシャル。残された痕跡 -。怪傑ゾロの記憶は、タキの無意識でライティングの欲望とリンクしている』と、指摘している。
もちろん、上に述べたとおり、これはタキ一人が始めたことではなく、ニューヨークの至る所で同時多発的に起こったことである。
怪傑ゾロの残したZの文字は、コードを共有した者(この場合は悪役)にしか理解されない(普通の人にはただの落書きとしか思われない)。ライティングのムーブメントの源流を怪傑ゾロに求めることはできないが、少なからずゾロのようなキャラクタへの共感みたいなものはあったのかもしれない。
キース・へリングとYouTuber
キース・へリングは本書で紹介されている12人の中で、私が唯一名前を知っているアーチストだ。知っているといっても、彼の名前とメディアで紹介された有名ないくつかの作品を見たことがある、という程度であるが…。
実は、先ほどのP170の引用は、キース・へリングの章にあるもので、その続きとして、大山は、キース・へリングについて、
と評しているが、これは現在、我々がへリングに対して持っているイメージそのものである。
そういった一般的なイメージとしてのへリングについては、本書を読んでいただきたいが、ここでは、へリングの映像に対するアプローチについて引用していく。
へリングはニューヨークのスクール・オブ・ヴィジュアル・アーツ(SVA)で学んでいた授業のひとつに「ビデオ」があった。
つまり、ヘリングは今でいう「自撮り」を先取りしているように思える。
さらにヘリングは、自身のドローイングに振付をして、それをビデオに撮るということも行っている。これは、現在の「YouTube」や、動画配信SNSでも当たり前に配信されているものだ。
ある日、へリングは道端に捨ててあった『ものすごく大きな紙のロール』を拾って学校に持ちこんだ。
へリングはSVA在学中の1978年に、ダンサーのモリッサ・フィンレーと出会い、彼女と共同でビデオとダンスの合作をすることで、上記のアイデアを具体化する。
フィンレーのコメントを引用する。
まさに「アーチストとダンサーのコラボ動画」だ。
現在は誰でもが簡単にできるようになった行為だが、ネット上に無数に溢れる似たような動画は、きっと本人たちは「自己表現」だと思っているだろうが、テクノロジーの発達で手軽にできるようになった「単なる行為の記録」でしかないように、私には思われる。
それは以下のへリングのコメントを読むとわかる。
現代のほとんどの人は「(技術的に)できるからやっている」だけであり、「映像に映っている自分とは何なのか。(映像の)自分自身を見ている(生身の)自分自身とはどういう存在なのか」といった、つまり「自己とか自我」といったものを深く思案することはないのではないか。そう考えないと、たとえば「バカッター」と呼ばれる映像を嬉々としてネットに上げたり、酔った芸能人が汚い悪態をつく動画を配信してしまうことへの理由が説明できない。
大山エンリコイサム氏について
著者の大山エンリコイサム氏は1983年生まれ。本書の著書略歴にてこう紹介されている。
「JINS 原宿店」の表にあるライティングは彼の手によるもので、「クイックターン・ストラクチャー」も確認できる。
前述のテレビ番組で、彼はライターになったきっかけをこう語っている。
自身もライターでありながら批評も行う理由を、大山はこう説明している。
さいごに
上でも触れたことだが、本書は、12人のキーパーソンの生い立ちの紹介や作品批評を軸に、ストリートアートの歴史や文化について丁寧に解説している。また、従来の「アート」との対比なども交えることにより、ストリートアートが芸術的な側面を持っていることにも気づかせてくれる。
だから、本書は、ストリートアートのライターを志す人たちの「教科書」であるのはもちろんだが、それらを鑑賞する我々にとっての「入門書」の役割をも果たしているのである。それはきっと、「みんなにライティングのおもしろさを知ってほしい」という大山の想いが詰まっているからだろう。