立ち現れた「等身大の女子高校生」~映画『水深ゼロメートルから』~(改稿)
高校演劇のリブート企画第二弾で、4人の女子高校生の物語で、しかもそれを、4人の女子高校生の物語を描いた超名作映画『リンダリンダリンダ』(2005年)を生み出した山下敦弘監督が撮る。
これはもう絶対観るしかない!
ワクワクしながら、映画『水深ゼロメートルから』(山下敦弘監督、2024年。以下、本作)を観て、見事なまでに強烈なビンタを浴びせられた、いや、物語に即して言えば「砂をかけられる」、しかも男である私にとっては「頭から砂をぶっかけられ」てしまった気になった。
断っておくと、もちろんそれは「誉め言葉」であり、本稿は恐らく、「頭から砂をぶっかけられてしまった」ことが何故「誉め言葉」なのか、を説明していくことになるのだろう。
その前に「高校演劇のリブート企画第二弾」について少し説明しておくと、高校生の演劇大会で上演されたオリジナル作品を商業演劇として上演し、そのほとんどのキャストでそのまま映画化するという企画で、第一弾は映画『アルプススタンドのはしの方』(城定秀夫監督、2020年)である。
両者の大きな違いは『アルプス~』が演劇部の顧問の先生の脚本であるのに対し、本作は『2019年当時・(徳島市立)高校3年生の中田夢花が顧問の先生と相談しながら丁寧に紡』いだ脚本であるということだ。
高校の演劇部が舞台で後に映画化・舞台化もされた平田オリザ著『幕が上がる』(講談社文庫、2014年)に、こんな一節がある。
本作は見事に『この小さな街に生きている高校生たちの、日常が立ち現れて』いる。恐らく、「今の」大人では、こうは書けない。
舞台はとても演劇的だ。
まず、「水のないプール」は「舞台」という閉ざされた空間であり、そこへは更衣室等に通じる通路からしか出入りできない(舞台的にいえば、背景に開けられた2つの穴から俳優が出入りする、ということになる)。
プールの底に積もった砂を掃いて集めて捨てる。しかも4人(本当は2人だったはずだが……)で。
広いプール一面に積もった砂は膨大だし、もし仮に全て取り除けたとして、すぐに隣のグラウンドから砂が舞って積もってしまう。
一体、この作業に何の意味があるのか?
この不条理感は、ペケット作『ゴドーを待ちながら』に通じる。
そういう作品だろう……と思ったら大甘だった。
このプールの中の不条理は、最終的に現代社会の本当に意味不明な、しかし、ものすごく重大で切実な不条理へと拡大される。
端的に言ってしまえば、それは「ジェンダー」だ。
世界中の女性が掃いても掃いても、砂は一向に減らない。少し減ったかと思ったところも、すぐに砂で埋まってしまう。
チズルがその砂に溺れてしまいそうになるのは無理からぬことだし、ココロが、ハナから掃除を放棄しているのも無理からぬことだ。
この圧倒的な「砂」に対して、女子高校生は絶望的に無力だ。
「ジェンダー」を真正面から扱うにあたり、本作はわかりやすい構図をとる。
物語の「仮想敵」は、隣のグラウンドで練習する野球部だ。彼女たちは、グラウンドと同じ高さから掘られたプールの底「水深ゼロメートル」の位置から、野球部と対峙しなければならない(良く思いついたと感嘆する)。
「野球部」と書いたのは、彼女たちが野球部に内包される3つの問題と対峙しているからだ。
まず、「選別される女性」ーそれには大きく「容姿」が関係するーの問題。
ココロがメイクに拘るのは、野球部のマネージャーを選別する面接で落とされたからだ(しかも、周囲には『ほんま一瞬(マネージャーになった)。秒で辞めたけど』と嘘をついている)。
「ココロは野球部のマネージャーになったことがない」「(男性)顧問による面接があるから余計やる気が出る。モチベになってる」という現マネージャーでココロと同じグループにいるリンカ(三浦理奈)のセリフは、ある意味「勝利宣言」でもある(さらに言えば、「マネージャーの仕事が楽しい」というセリフは、ある意味「男に尽くすのが女の幸せ」観に繋がる)。
そして、最大の敵は「男」である。
物語は、「男」のメタファーを野球部のエース・楠として現出させた。
楠がジェンダーとしての「男」であることは、ココロが楠のことを最初に話題にした際に『楠ってさぁ(略)やっぱ男性はすごいなあ!』と言う(パンフレットに掲載されたシナリオ(決定稿)では『男子』と書いてある。より強調する意味で、撮影時に改変されたのではないか)のに対し、後のシーンで野球部全般を指す際に『男子』と言うことでも明らかだ。
さらに、「男」である楠が打ったボール(「男」の「力」、ある意味「暴力」)が、プールにいる彼女たちの身体を脅かす。
中学時代は勝っていたはずの水泳で楠に負けたことで、自身のアイデンティティが揺らいでしまったことに戸惑っているチズルは、楠が打ったボール自体が飛んでこなかったかのように装うことで、その脅威などなかったと思い込もうとする。
ココロとチズルが楠=男性という存在に絶望的なまでの無力感を感じているのに対し、後の二人はちょっと違くて(舞台挨拶に登壇したキャスト4人が揃って「違くて」と言っていたので、それに倣ってみた)、ミクは「女そのもの」-体の変化や周囲の人たち(男女問わず)の見る目が変化していくことーに抗えないという無力感を抱えている。
元水泳部部長のユイ先輩は、ジェンダー問題の「傍観者」として存在する。水泳部の部長は「ジェンダー問題」のメタファーとして使われ、自分の意志を継いだはずのチズルが楠=男性に対して弱気になっていることを心配して、力づけるためにプール掃除を手伝っている。
しかし逆に、ユイの本質はジェンダー問題の「傍観者」であることをチズルに指摘され傷つく(つまりユイは、「水のないプール(「砂」の上)で泳ぐ」ことで戦っているチズルの行為の意味が理解できず、滑稽な行為だとしか思っていない。それが何を意味するか、観客にはわかるはず)。
4人それぞれのジェンダー観が露わになっていくその過程で、特にココロのセリフに、彼女の痛々しいまでの容姿へのこだわりの原因が「野球部」にあることで、男である私は、強烈なビンタを浴びせられた気になった。
「野球部」が内包する3つ目の問題「砂」。
『野球部は、ここに砂が飛んできてることすら知らんのやな』
つまり無意識な男たちこそが、絶望的な「不条理」を解決できない原因なのだ。
だからこそチズルは集めた砂を持って「野球部」へ殴り込みに行くわけで、その切実なまでの「宣戦布告」(もちろん、一度は隠そうとしたボールも持って。それはつまり、「男の暴力に泣き寝入りしようとしてしまった自分自身の弱さへの宣戦布告」であると共に、「それが女性を傷付けている」ことへの謝罪の意も込めて)に、野球部員はワケがわからず立ち尽くすしかない。
しかし、彼女たちを観てきた「男」である私は、「頭から砂をぶっかけられてしまった」気になった。
女子高校生から「立ち現れた」、現代のジェンダーの不条理を鮮やかに描く。
それが、「頭から砂をぶっかけられてしまった」ことが「誉め言葉」である理由だ。
ラスト、それまで晴れていた空から突然土砂降りの雨が降る。
それは、あの「文化祭」を思い出させる。唐突に終わるラストシーンについて、私は過去の拙稿で「文化祭は終わっていない」と書いた。
本作ラストも、あの「終わらない歌」を想起させる。
彼女たちの戦いも始まったばかりだ。
メモ
映画『水深ゼロメートルから』
2024年5月4日。@UPLINK吉祥寺(公開記念舞台挨拶あり)
本作ラストシーンについて、第19回大阪アジアン映画祭で観客からの質問に、山下監督はこう答えた。
ところで…
「今の」大人では、こうは書けない。
と本文で書いたが、「今の」大人が書いたこともある。
それは、教師が校庭の隅でタバコを吸うシーンだ。
このシーンについて舞台挨拶に登壇した山下監督は、「中原俊監督の『櫻の園』(1990年)が好きだったので、学校でタバコを吸うシーンが撮れて嬉しかった」と語った。
『櫻の園』でたとえると、本作のミクが抱えているものは、志水由布子と倉田知世子のそれと同じ、と言えるかもしれない。
本作ラストシーンは、「女そのもの」或いは「女にまつわる全てのもの」に対する「宣戦布告」ではなかったかとも思える。
※映画『櫻の園』は地方の女子高校の演劇部が舞台で、本作と同様のテーマと、(時間軸がほぼリアルタイムであることを含め)物語構造を持っている。山下監督は、ただ自分の好きな映画とシーンを挙げたわけではない。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?