【補稿】イキウメ 舞台『人魂を届けに』
以前投稿した、イキウメ公演 舞台『人魂を届けに』(前川知大作・演出。以下、本作)の感想文について、少し補足(というか、完全に私の妄想を記)しておく。
感想文では私は、本作について『登場人物たちが語る物語を観る』ことにより『その会話の向こうにある「何か」を観る(観てしまう)』と書いた。
ここで大事なのは括弧内の『観てしまう』という点で、それはつまり、我々観客は勝手な想像で「観ている」のあり、そこに「事実性の保証」はない。
そもそも、登場人物が語っていることが事実であるという保証は、物語の中で一切されていない。
元々、あらゆる「物語」は「創造=想像」の産物であるが、それらの「物語としての事実性」を保証するのは、「他者の介在」ではないか(さらに言えば「介在する他者と、時間と経験を共有する」ことだ)。[1]
本作、周りの人物(主に若者たち)を「語り」に登場する人物たちに「見立てる」ことにより、観客が「何かを観てしまう」仕掛けになっているので騙されやすいが、冷静に考えると、それらは「本人が語っているだけ」に過ぎず、誰もそれが事実だと保証しているわけではない。
各々が自身のエピソードを語るが、誰もその場面に立ち会ってはいないーつまり「他者の介在」がないーし、そもそも物語の設定上、そこにいる人物たちは「お互いの素性を知らない」ので、各々の語りは初耳(或いは初体験)ということになる。
物語上の事実
私の記憶で言えば、物語上で「事実」と判断して良いことは、下記の点ぐらいではないだろうか。
・八雲は片脚をひきずっている
身体的な事まで疑うとキリがないので、これは事実としておく。ただし、後述するが、その原因が八雲の語りどおりとは限らない
・「ママ」と呼ばれる山鳥が男性である
陣という他者によって指摘されることであり、山鳥本人を含め他の人物からも否定されないため、事実と判断する
・山鳥を含めた男たちが集って話をしている
・ブランクから復帰したアーチストが野外音楽堂でのライブで銃を乱射した
これも陣という他者が『死亡した人は全員、銃で撃たれたのではなく圧死だった』と客観的事実として語っている
・陣と八雲は面識がある
八雲が語ること
そもそも八雲が語るエピソードに信ぴょう性がない。
事の発端である「黒い何か=人魂?」が喋るというのも、八雲が主張しているだけで、そこにいる人物の誰一人(面識がある陣ですら)としてその声を聞くことがないし、八雲が陣と会った日と、陣がこの家に来た日の辻褄が合っていない。
八雲は「陣さんは公安警察だ」と言うが、それを示す証拠は物語上示されず、八雲の憶測でしかないとも言える。
陣は当初否定するが、他の人物たちから執拗に攻められ、最終的に「公安だ」と開き直る。が、それが事実だとは、物語上示されない(八雲は「公安警察は自分からは認めない」とも発言しており、陣が公安警察であるのは八雲の憶測でしかないのに対し、「公安警察は自分からは認めない」というのが「客観的事実(或いは「広く大衆に認知された噂」)であるなら、陣の開き直りは、所謂「嘘つきのパラドックス」に通じる)。[2]
八雲は「山鳥に手紙を出した」と言うが、山鳥が「受け取っていない」と否定する以上、八雲の発言が事実であるとは断定できない(もちろん、山鳥が嘘をついているという可能性もあるが、それも断定はできないし、仮にそうだとしても、物語としてそれが提示されない以上、八雲が嘘をついていないことは立証できない)。
八雲が片脚をひきずっているのは確かだが、それが「アーチストが撃った弾丸が当たったから」だというのも、彼自身の証言でしかない。
上述のとおり、陣の証言から銃乱射事件は事実であろうが、しかし彼は『奇跡的に銃による(アーチストが自身を撃った以外に)犠牲者はいない』と証言している(一度観ただけなので「犠牲者」だったか「死亡者」だったかは定かではないが、いずれにせよ陣は、銃乱射による負傷者について言及していない)。
「息子の失踪」も「妻との離婚」も、八雲が一方的に語っているだけで、物語上、それが事実だと証明できるものは一切提示されない。
では、八雲は何を語ったのか?
誰が救われ、再生したのか?
2023年5月26日、「ぴあ」のサイトで『イキウメ最新作は“人魂”を巡る救いと再生の物語 主宰・前川知大インタビュー』という記事が配信された(ちなみに、記事本文では『救いと再生の物語』という文言は一切出てこない)。
本作が『救いと再生の物語』だとしたら、誰が救われ、再生したのか?
言うまでもなく、主人公の八雲だ。
先に述べてきたように、八雲の語りには信ぴょう性がない、というか、物語上で、彼が語ることを裏付ける言動・事象は一切提示されない。
語る内容についての裏付けはないが、彼は一貫して自身の「喪失」について語っており、少なくとも、彼がなにがしか、しかも相当深い「喪失感」を抱えていることだけは(物語の設定としても)確かだろう。
「自分を語る」ことによる救済としては、宗教に求める「懺悔」や現代精神医学の面から語ることができるかもしれないが、それは「再生」に繋がらない。
八雲は「語る」ことによって「再生」したのではないだろうか。
それは、どういうことか?
八雲は山鳥の家に集う若者の存在や彼らとの会話・対話(もちろん言うまでもないが、彼らとて自分のことを正直に語っているとは限らない)を通じて、自身の過去を改ざん、或いは捏造して、「新たな記憶を得て生き直す」ことによって救われ、再生したのではないか。[3]
「陣」とは何者か?
八雲を始め、山鳥の家に集う若者たちは、先の「ぴあ」の記事での前川知大氏の言葉を借りれば『魂が傷ついた人たち』であるが、唯一、肉体的に瀕死の状態であるにも拘わらず、この家から出てゆく者がいる。
それが陣であり、物語において彼が出てゆく理由は、「公安警察として山鳥たちについて報告に行く」と説明される。
しかし、上述したように、陣の言動は「嘘つきのパラドックス」に通じていると考えると、別の意味が浮上してくるのではないか。
ということで、彼が「公安警察」で全然構わないのだが、あえて曲解的見方として、陣を神=「かみ」と読み替えてみる。
陣は、庇護者としての山鳥を除けば、唯一、自分のことを語らず、他人のことばかり語っている(物語の構造上、自分のことが語れないから、この家にいられない)。
それは、陣は神ゆえに「自分のことが語れない」からではないか(神は「自己」という概念がなく、あまねく世界を語る存在である)。
彼が瀕死の状態なのは、そのまま「旧来宗教の衰退」を意味しているのではないか。
「ぴあ」の記事の中で前川氏は、『(山鳥の家に集った)彼らがだんだん浄化され、宗教的に澄んでいく感じになるといいなと思っていて』と発言している。
それを「陣=神」と「山鳥」の対比として考えるとつまり、「旧来宗教の衰退」とは「偶像としての神の弱体化」であり、代わりに、「現代新興宗教の勃興」として、若者たちは山鳥という「実存」によって『浄化され』るという構造なのではないか。[4]
もちろん、陣は物語上「陣」という役名なのであり「神」ではない。だから、先の話は私の「妄想」である。
注釈
[1] 他者の介在
2016年6月5日に放送されたNHK Eテレの番組『ニッポン戦後サブカルチャー史Ⅲ』において、劇作家・演出家の平田オリザ氏が『"歯が痛い"という演技は無理なんじゃないか。(他の登場人物=他者による)「あの人歯が痛いらしいよ」とか「あいつ歯医者で大変だったんだよ、このあいだ」みたいな(セリフがある)のだと、何故か人は信じてしまう』と発言している。
[2] 嘘つきのパラドックス
「自己言及のパラドックス」「クレタ人のパラドックス」とも言う。
要は「私は嘘つきだ」という発言は、意味的に矛盾が生じるということ。
「公安警察は自分からは認めない」というのが世間一般の通説として真だと考えれば、「私は公安だ」という陣の発言はパラドックスに陥る。しかし、本文でさんざん言及しているとおり、「公安警察は自分からは認めない」についても、物語上は真であるとはされていない。よって、ここでは「に通じる」という表現にした。
ちなみに、リーフレットで陣は「公安警察」と紹介されているが、それを言うなら、山鳥だって「森に住む女」と紹介されている。
[3] 八雲の「再生」
ある意味において、八雲の語りは「自身の罪」を告白・懺悔する行為であり、「その罪に対する罰」として弾丸を受けたという「新たな記憶」によって救われ、再生するとも言える。
[4] 偶像としての神の弱体化
宗教に詳しくないのでザクッとした表現になっているが、だから、本当にわかっていない「偶像すら認めない神」には言及していない。