映画『藍に響け』
映画『藍に響け』(奥秋泰男監督、2021年。以下、本作)のパンフレットに監督はそう綴っている。
その言葉どおり、本作は「音魂」で表現されている映画である。
主人公は2人の女子高生。
バレエの夢を失った環(紺野彩夏)と、交通事故で声を失ったマリア(久保田紗友)。
環が浜辺でバレエシューズを処分するシーンから始まる映画は、「和太鼓部」という設定こそ特殊だが、王道の青春部活動物語である。
打ち込んでいた道を諦めた主人公が、何かのきっかけで別の部活に入ることになる。主人公が入部するまでに葛藤があり、入部したことや、大会で勝つために招聘したコーチのやり方に反発したりで、それまで築いていた部員たちの和や友情が崩れかける。そういった困難を乗り切って、部員たちはいよいよ大会の日を迎える…
だが、王道の青春部活動映画で想起される人気アイドルや若手俳優主演のそれとは全く異なっていて、それらを見慣れた観客は戸惑うかもしれない。
何故なら、「言葉やセリフでの説明が一切ない」からである。
環がバレエを諦めたのは本人の才能のせいではなく家庭の事情らしいということが、セリフから観客が唯一読み取れることと言っても過言ではない。
もう一人の主人公・マリアの手話は字幕が出ないし、周りの人たちも通訳しない。
各エピソードについても、理由やいきさつ、状況を説明するセリフが一切ない。
登場人物が自分の想いを延々独白することもない。
全てのシーンは現実同様、その人物や状況・関係性において適切な応対となっており、そこにいないはずの観客へ配慮する(ある意味「親切な」)言動はしない。
しかし、たとえセリフで説明されたとして、本作で描かれる2人の主人公と部員たちの心の機微・葛藤・成長を、観客は理解・共感できるだろうか?
現代の我々は、メールやSNS、ブログといった文字メディアだけでなく、動画メディアでも、「言葉」で何かを伝えようとする。それほどまでに言葉に頼っている。
しかし、言葉への信頼は高度に発達した近代文明がもたらした盲信でしかなく、人類は「音」でコミュニケーションしていた歴史の方がはるかに長いのである。
だから、現代人の我々ですら、言葉では絶対に伝わらない想いも、「音」でなら感じ取れる。
環が魅かれたマリアの清廉な気高さ、入部テストでの部長の頑なな拒否感とバレエへの未練を断ち切るために太鼓に縋ろうとする環の必死さ、シスターニッチェのスパルタへの萎縮、つい先日まで未経験者だった新入りなのに仲間を下に見て一人真剣になっていると思い上がっている環への部員の反発、未熟さゆえバラバラになった部員の心をまとめられずにいる部長の苦悩…
言葉にならない彼女たちの気持ちは、彼女たちが叩く和太鼓から「音魂」となって響き、観客の身体に直接訴えかける。
圧巻だったのは、大会前に出演した演奏イベントのシーン。
独善的な思い上がりで苛立つ環、そんな環に困惑するマリア、その2人に反感を覚える部員たち、各々の心が通わなくなってしまったことを、太鼓の演奏音がうまく表現していた。
演奏音の説得力により、観客は説明されなくても部員たちの深刻な決裂を理解できるのである。
最終盤、それまで丁寧に和太鼓の音で表現してきた積み重ねの結果が、コンクールの地区大会シーンで発揮される。
これまでのシーンのカットバックや、部員たちが笑顔でアイコンタクトするといった、わかりやすい演出は一切ない。
彼女たちは真剣に和太鼓と向き合い、唯々懸命に叩き続ける。
それだけのシーンなのに観客は、環とマリアだけでなく部員たち全員が、苦難や葛藤を乗り越えた末に成長したことを、和太鼓の「音魂」で体感するのである。
いや、和太鼓だけではなかった。
環が夢を失ったシーンで始まった映画は、マリアが「夢」を掴み始めるシーンで終わる。
それは「言葉」ではあったが、確かに、魂のこもった「音」だった。
2021年5月26日の夜、スーパームーンで皆既月食だった。
月食は本作を観ている間に始まったらしく、終映後に新宿武蔵野館の地下からそのまま新宿駅に入ってしまった私は、自宅の最寄り駅に着いて、みんなが空にカメラを向けているのを見るまで、それに気づかなかった。
私が見た21時過ぎには月は半分以上顔を出していたが、それでも月食の余韻みたいなものは充分に感じることができた。
ふと、1年前の最初の緊急事態宣言中、映画監督の西川美和氏が「Movie Walker」に寄稿した文章を思い出して、泣きそうになった。
私はその日、まさにこんな体験をしてきたのだが、心のどこかで、それが特別な事だと思ってしまっている。
一日も早く、こんな体験が当たり前にできる日常へと戻ることを、心から待ち望んでいる。