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解決不可能だからこそ、理想を追い求め続ける~映画『四等辺三角形』~

映画『四等辺三角形』(早川黎監督、2024年。以下、本作)の本編約140分の間、ずっと辛かった。逃げ出したいとさえ思った。
断っておくが、それは本作がつまらないからでも、出来が悪いからでもなく、観客である私が、私自身ときちんと向き合わざるを得なくなるからだ。

吃音症の草太(依田光正)と周りに合わせてばかりの未津菜(戸塚真琳)は地方都市の中学生。他人との自然なコミュニケーションに難を抱える二人は、イジメがはびこるクラスで日常的に息苦しさを感じていた。そんなとき、未津菜がなんとなく始めたライブ配信が拡散されたことをきっかけに2人の世界が動き出す。つながりを絶たれた少年少女たちが最後に見出した形とは…。

本作が描き出すのは、ずばり「いじめ」だ。
本作で描かれる現代のいじめは、私が中学生だった昭和より陰湿化しているように見えるが、一度も家庭を持った事がない私には、これがリアルなのかカリカチュアなのかわからない。
しかしそれは本作の核ではなく、重要なのは、いじめは、直接間接の別なく加害した立場にあった者、被害を受けた者、何とかしなければと思っていたか否かに関係なく、結果的に傍観する事で加担する立場にいた者、被害者にならないために加担の立場にいた者、さらに言えば、加害被害の立場は一方通行でないが故に両方の立場にあった者など、誰もが無関係でいられないという本質だ。
早川監督はこの本質を救いも希望もなく描き切る。

子どもから大人になる狭間の時期である“思春期”。それは、心も体もひとりひとり別々のペースで発達する集団のなかで、己の立ち位置や能力を自覚していく最初のタイミングであるのかもしれない。運動神経、知能、美醜、コミュニケーションスキル…自分が何者であるかを輪郭づける社会的なカテゴリ=「形」に囚われ、優劣や序列を意識しながら生きることが当たり前になっていったのは14歳ぐらいからだっただろうか。
メインロケ地は新潟県五泉市の廃校舎と自然風景。本作が映画初出演の戸塚真琳と依田光正が主演を務める。自主映画を中心に活躍する清田美桜、町田英太朗、小春を中心とした若手キャストがこれに加わり、現代を生きる若者のリアリティを生なしく演じている。痛々しき傷口を真摯にまなざすということ。新人監督・早川黎が残酷さと隣り合わせにある一筋の光を美しく描き出す。

シモキタ エキマエ シネマ K2 公式サイト

さら劇中において、ネット社会における「資本主義(或いは新自由主義)」「市場経済」の名の下に、弱者(と見なされた者、負け組)が強者(勝手に「弱者」と見なした者を見下す者、(自称)勝ち組)から搾取される構図が、未津菜によって「大人のいじめ」だと暴かれる。

本作においていじめは、その構造故に「解決不可能」であることが詳らかにされる。
映画はエンターテインメントだが、それはウソや理想や虚構で観客を気持ち良くさせるだけのものではない。
だから本作のような作品は、エンターテインメントとして重要な役割を担っている。

では本作がその重要な役割を果たすだけで終わっているかというと、そうではない。
物語は、大人になった草太が中学時代の(幾何学の研究者でもあった)数学教師からもらった手紙によって当時を回想する、という構成になっている。
大人の彼は『本質を見るのが怖くて、言葉にすることを避けていた。だから、自分の言葉はその周辺をなぞっているに過ぎない』といった意味のことを言う。
数学が得意だった中学生の彼は、世界を数式で表そうとしていて、そこから、本作タイトルでもある「等辺三角形」という、あり得ない図形を導き出すことを夢見ていた。

ラスト、幾何学の魅力を取り戻した教師の手紙によって中学生時代の記憶ときちんと対峙した彼が、「解決不可能」だとわかった上でそれでも幾何を極めるがごとく、理想を追い求めようと決意する。

私が本作を観ながら辛くて逃げ出したかったのは、中学時代の私のいじめ体験(上述したように、いじめに対して無関係でいられた生徒はいない。故に当然、私にも「体験」はある)について、草太と同様、『本質を見るのが怖くて、言葉にすることを避けていて、故に、自分の言葉はその周辺をなぞっているに過ぎな』かったからだ。
草太の回想をとおして自身の本質を見せられしまった(記憶が勝手にフラッシュバックしてしまう)私は同様に、大人の草太によって「解決不可能」だとわかった上で、理想を追い求め続けなければならないのだと気づかされたのである。

メモ

映画『四等辺三角形』
2024年11月24日。@シモキタ エキマエ シネマ K2(アフタートークあり)



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