![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/160382577/rectangle_large_type_2_21369084eb2d4f83ed1a7ded6226250c.jpeg?width=1200)
"手"が伝える"記憶"~映画『Underground』(TIFF2024 Nippon Cinema Now)~
いま撮っている新作では、役を担っていただく方に参加してもらっているんですよ。日本の地下空間の記憶をめぐる長編を撮っていて、スクリプトはないからドキュメンタリーと呼んでいいとは思うんですが、そのなかで記憶を巡っていく「影」という役を、映画監督・ダンサーの吉開菜央さんにやってもらっているんです。
その映画『Underground』(小田香監督、2025年公開予定。以下、本作)が完成し、2024年の東京国際映画祭(TIFF)で上映された。
地下の暗闇から「影」が姿を現す。ある女の意識と交信し、女は白昼夢を見るように、時代も場所も超えた断片的な記憶を見るようになる。女の姿を借りて「影」は旅をする。地上から見えない場所に身を置いて、時の流れに埋もれた人の記憶に耳を澄ませ、かつてそこで起きたことをトレースしてゆく。「影」は、ふと入った映画館で出くわした映像に導かれ、湖の底に沈んだ街に向かう。
本作はドキュメンタリーともフィクションとも割り切れない不思議な映画だ。
『Underground』というタイトルが示すとおり、本作は天然の洞窟から人工的に造られた雨水路や鉄道など「地下」の映像で構成されている。
しかし、ただ地下空間を撮っているわけではなく、そこに何らかの映像を投影させてみたり、影を映し出したりといった「作為」が施されている。
その「作為」の最もたるものが映画監督・ダンサーの吉開菜央が演じる「影」の存在だ。
「影」は、そこに「いるようでいない」「いないようでいる」存在として描かれる。それは、地下空間に感じる「神秘性」の具現化ともいえるし、それらの場所に感じる「不思議な温かみ」の正体ともいえる。
ティーチインで小田監督が語ったとおり本作は「記憶」がテーマであり、それを「手の存在」で表現している。
その「手の存在」こそが、先に書いた「不思議な温かみ」に繋がる。
本作が『ドキュメンタリーともフィクションとも割り切れない』というのは、「影」の存在があるのと、もう一つ、その「影=吉開菜央」が家で料理を作るシーンが挿入される点にある。
本作を観ながら私は、「手仕事」という言葉を思い出していた。
「手」は「仕事」をする。
人工的に造られた地下施設はもちろん「人の手」によるものだが、洞窟など自然にできたものも「自然(或いは神)の手」で造られたものと考えることができる。
料理を作るのも、もちろん「手」だ。
もう一つ、本作を観ながら思ったのは、「手」は「時間を超越するコミュニケーション手段」だということだ。
誰か(或いは何か)の「手」で造られたものを「手」で触れる。そうすると不思議なことに、"今"ではなく"それが造られた過去から現在までの時間"を感じ取れてしまうのだ。
我々が何かに触れたくなるのは、単に触覚の欲求というだけでなく、それらに流れている「時間」を感じ取りたいからではないか。
「手」の「仕事」と「記憶」の最もたるものは「文字」ではないか。
実際の公開版にも英字幕が付されるのかはわからないが、今回英字幕付きでよかったと思ったのは、「影」が木に指で「われわれ」と書くシーンを観たときだ。
「わ」と書くシーンで英字幕に「cogito」と表示され、続く「れ」では「I」(二度目は「You」)と訳されていた。
つまり、日本語(漢字)では「我々」と書くが、英語(或いは本作)では、「我=cogito」と「私/あなた=I/You(実体)」が区別されているのである。
「文字」はまさに、実体と「我」が区別され、記憶されるのは実体ではなく「我」ということなのだろう。
本作中盤、先の大戦時の「沖縄戦」の記憶が「言葉」によって伝達(伝承)される(小田監督の前作『GAMA』(2023年)の映像が使われている)。
複数の洞窟に避難していた沖縄の人々が死んでいった記憶、生き残った記憶、それぞれの洞窟の記憶……そこに「影」は寄り添う。
洞窟の中の砂を篩にかけ、そこで亡くなった方の遺骨を探し出すのもまた、「手の仕事」だ。
ティーチインで観客から吉開が料理をするシーンを挿入した理由を聞かれた小田監督は、『「影」は重力を感じ(させ)ない存在として描いたが、映画として重力が欲しかったため』といったような回答をした。
私は料理のシーンを観ながら、彼女が立つ台所の下に広がっている「地下=Underground」を想像して、独りで勝手にワクワクしていた。
何故ワクワクしたのか、何故「地下空間」に神秘性を感じるのか、小田監督が言った「重力」という言葉で、腑に落ちたような気がした。
小田監督は、『ボスニアの地下3000メートルの炭坑を撮った『鉱ARAGANE』(2015年)』や、『メキシコ・ユカタン半島に点在する洞窟内の泉に潜った『セノーテ』(2019年)』といった作品で知られている。
こういった作品群について、先の「文學界」での鼎談で映像作家の小森はるかが『小田さんは地下や水中といった、あえて極端に制約のある環境に身を投じている気がして、そういうダイナミックさもあるんですが、ただ単に過酷な環境で撮るぞということではなくて、まずは体が普段通りに動かない場所にいくことが、おそらく小田さんにとって必要だったんじゃないでしょうか』と指摘している。
それに対して小田監督は、『そういわれると、たしかに必要だった気がします。フィルムメーカーとしてのキャリアの初期に、地下という極地を撮る機会を多くもってきたのは、制約が必要だったからなんじゃないかとは自分でも感じるんですよ』と答えている。
終盤で、吉開が部屋で体操? ヨガ?を行うシーンで、その「制約」が見事に表現されている。
ダンサーである吉開の動きは、身体を自由に駆使したダイナミックなものであると同時に、制約のない身体を駆使して"あえて"制約のある姿勢に持って行こうとしているようにも見える。
『制約のない身体を駆使して"あえて"制約のある姿勢に持って行こうとしている』
それこそが、小田監督の作品のテーマであり、また、私が地下空間を想像して独りで勝手にワクワクしてしまう理由なのかもしれない。
メモ
映画『Underground アンダーグラウンド』(TIFF2024 Nippon Cinema Now出品作品)
2024年11月2日。@丸の内ピカデリー(ティーチインあり)
ティーチインで観客からも言及されていたが、私自身も冒頭の音楽(或いはSE)に撃ち抜かれてしまった一人だ。
それにしても、あんなに重低音なのに、余裕を感じさせるウーファーの出力……音響システムの進化に改めて感服した。
なお、2022年には同タイトルで9分のショートムービーが公開されている。