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雑誌で表現された美意識とたくらみ:『Next EditorShip:80-90年代を創った雑誌をデコードせよ! AI時代の編集力を考える。』イベント・レポートPart2

2024年1月26日に、テクノロジーとガジェットのメディア『GIZMODO JAPAN』編集長の尾田和実さんをお招きし、『Next EditorShip:80-90年代を創った雑誌をデコードせよ! AI時代の編集力を考える。』と題して、インフォバーン代表取締役会長(CVO)・小林弘人とのトークイベントを実施いたしました。

80-90年代の雑誌カルチャーを振り返り、そこにあった「EditorShip」を紐解きながら、これからの編集者像について議論しました。この記事では、お二人が影響を受けた雑誌や編集者について語られた内容をお届けします(Part2/全4回、
#Part1#Part3#Part4)。


雑誌はアートワークにも主張がある

――ここからは、ご自身が影響を受けた雑誌や編集者について、それぞれご紹介いただきます。まずは小林さんからお願いします。

|テリー・ジョーンズ|

小林弘人(以下、小林):今回、自分が影響を受けた雑誌を考えたら、思いもよらずデザイナーが多くなりました。ただ、この方は編集者兼デザイナーですね。イギリス人で、1980年代に創刊された雑誌『i-D』の編集長をしていた方です。70年代後半からイギリスでは、パンクのムーブメントとか、ファッションではヴィヴィアン・ウエストウッドが出てきたりとか、新たなストリートカルチャーが盛り上がっていたんです。

そんな時代の空気のなかで、テリー・ジョーンズはコピー機を駆使して、わざと歪ませるビジュアルをつくっていたりしたんですよ。編集長が、自らデザインにも関わっていたんですね。僕はそんなテリー・ジョーンズを見て、「全部やりたいなら、自分で全部やっていいんだ!」と思ったものです。ハイファッションの『VOGUE』などがある傍らで、『i-D』はラフなスタイルでストリートカルチャーの空気を表現していたんですね。

尾田和実(以下、尾田):一連の表紙を見て、みなさんは何か気づきませんか?……実は共通点があって、表紙の人がみんな片目をつぶっているんですよね。

小林:『i-D』のロゴがウィンクしているようなデザインで、それに合わせているんです。そういうところも洒落が効いていますよね。

尾田:そういうのを見ると、グッときちゃいますよね。

小林:日本版が出たときも、小泉今日子さんが表紙だったんですけど、片目をつぶっているのは一緒でした。

|ウォルフガング・ティルマンス|

小林:この方は、ホンマタカシさんも尊敬してるとインタビューで語っていた写真家の一人です。デジタル写真がない時代は、主に雑誌にはポジフィルム(被写体の色と明るさがそのまま反映されたフィルム)を入稿していたんですけど、この人はネガフィルム(被写体の明暗が逆転したフィルム)を焼いて納品していたんです。

よくポジフィルムでの撮影のほうがカメラ上級者向けだと言われますが、ティルマンスのテクニックを見せつけずに無造作に仕上げる感じは、衝撃的でした。ティーンエイジャーたちのリアルを描かせたら天下一品で、ローファイな魅力がありました。

|ナン・ゴールディン|

小林:ナン・ゴールディンは、ライカを使っていた写真家で、普通はストロボを付けて撮ると硬くなってダサい写真になりがちなんですけど、あえてストロボを付けてバシャバシャと撮影していて、それがカッコいい。写真の題材も、ボーイフレンドにDVされた自分自身とか、今でいうLGBTQ+の友達とか、コカインを吸っている友達とか、生活のリアルを追求していて、いろんな人がインスパイアされて真似していました。

尾田:映画のワンシーンみたいですよね。日本でも、このテイストの影響を受けた写真がいっぱい出ましたね。

小林:こうした写真家たちも雑誌とともにあって、写真家の力で雑誌が洗練されたり、人気雑誌が起用することで写真家が有名になったり、良い循環があったんですよね。必ずしも売れっ子だからとその人にばかり発注があるわけじゃなくて、こういうストリートから出てきた人と一緒になって、雑誌はつくられていたんです。

|ネビル・ブロディ|

小林:この方はアートディレクターですね。ファッション雑誌の『THE FACE』などに関わっていたんですけど、誌面を見た瞬間に変だとわかると思います。これも雑誌の力の一つで、タイポグラフィーの力が本当にすごい。レイアウト自体が唯一無二の個性になっているんですよ。

こうした雑誌のスタイルは、Webだとなかなか真似できないですね。Webはプログラミングやテクノロジー上の制約のなかで表現することになるので、融通が利きづらい。自由にやろうとすると、Google検索に引っかからなくなるとか、問題が出てしまう。アートディレクターの主張が誌面ににじみ出ているのは、一周回って新しさを感じますね。

|デヴィッド・カーソン|

小林:『Ray Gun』という雑誌で有名になったデザイナーです。この方になるとDTP時代になってきて、テクノロジーを駆使したりしているんですが、これも誌面を見るとすぐにヘンさがわかりますよね。もはや文字が読めないでしょう(笑)。文字が読めない雑誌は、世界初なんじゃないでしょうか。

ロックスターのデヴィッド・ボウイを特集したときの面白いエピソードがあって。『Ray Gun』はサンディエゴのインディー雑誌だったので、あのデヴィッド・ボウイが出てくれるというのは、すごいことだったんですよ。それなのに、デヴィッド・カーソンはその表紙で、デヴィッド・ボウイの顎だけ写した写真を使おうとしたんです。せっかくのチャンスなのに、顔が見えなきゃ誰だかわからないですよね(笑)。

編集長としては、大ファンでずっと願っていたデヴィッド・ボウイのインタビューを取りつけたのに「顎かよ!」って、それでデヴィッド・カーソンと喧嘩して仲たがいしたという逸話をどこかで読んだ記憶があります。

尾田:でも、そうした編集者とデザイナーのエゴのぶつけ合い、主張の対決というのは、よくありましたね。

小林:それが緊張感を生んで、面白い雑誌ができていたところがあります。デビッド・カーソンのデザインは、アートの領域なんですよね。以前に尾田さんから聞きましたけど、デヴィッド・カーソンはファッション界にも影響を与えているんでしょう?

尾田:そうなんです。たとえば、過去にルイ・ヴィトンの服飾デザイナーも担当していたマーク・ジェイコブスが影響を受けています。彼のブランドの「マーク ジェイコブス」が運営していた表参道の「BOOKMARC」という書店でも、『Ray Gun』の展覧会を開いていましたね。日本でも、ファッションブランドの「NUMBER(N)INE」を手がけていた宮下貴裕さんに僕がインタビューしたとき、その影響を語っていました。今、彼が手がけている「TAKAHIROMIYASHITATheSoloIst.」というブランドでも、『Ray Gun』のビジュアルを取り入れた服をたくさんデザインして販売されています。

当時は日本のグラフィックデザイナーも本当によく真似していたし、ミュージシャンの間でも知れ渡っている存在でしたね。

|坂川栄治|

小林:出版業界にとどまらないクリエイターへの影響力という意味で、日本では坂川栄治さんがいるでしょう。ブックデザイナーとして有名ですけど、実は『SWITCH』という雑誌の創刊アートディレクターなんです。

今はカルチャー誌として、『SWITCH』はいろいろなテーマを扱っていますけど、当時はアメリカ文学の色合いが濃い雑誌だったんです。僕が好きな劇作家で俳優のサム・シェパードを1冊丸ごと特集したりして、文字量が半端じゃないんですけど、すごく綺麗に文字組みされていて。スミ一色刷りでお金をかけてないんだけど、それが坂下さんのタイポグラフィの力でむしろステータスになっている。デザインも素晴らしいし、中身の編集も良かったので、毎月むさぼるように読んでいました。

|井上嗣也|

小林:最後に紹介するのは、井上嗣也(つぐや)さんという大天才です。ファッションブランドの「コム・デ・ギャルソン」が雑誌を出していたことを知っている方はいますか? 『Six』というビジュアルマガジンで、8号まで出ていました。

そのアートディレクターを務めていたのが井上さんで、手で触れたら切れそうなぐらいに緊張感のあるアートワークなんです。中を開くと、写真に小さい字でほんの少し文章が載っているんですけど、写真に対して、テキストはこの位置に置かなきゃいけないし、このサイズじゃなきゃいけないという絶妙なバランスでデザインされている。

井上さんは「コム・デ・ギャルソン」の広告アートワークもされていて、当時は飾り立てたファッションがもてはやされるなかで、全面モノクロ写真に、ごくごく小さくブランドロゴを端に入れるという、カッコいいビジュアルのポスターを制作されていました。アパレルブランドも雑誌をつくる時代があって、こうした偉大なアートディレクターが活躍していたんです。

総合プロデューサーとして仕掛ける‟知的な悪ふざけ”

――続いて、尾田さんが影響を受けた雑誌をご紹介ください。

|『Grand Royal Magazine』|

尾田:アメリカのビースティ・ボーイズというヒップホップ・グループが出していた伝説の雑誌です。ビースティ・ボーイズは90年代の音楽界に革命を起こした、ローファイなヒップホップの元祖みたいな存在ですね。まさに「悪ガキ」という感じの少年たちなんですけど、自分たちであえてどヘタな演奏をしたり、音をサンプリングしてループさせたり、『Check Your Head』という革新的なアルバムを出していました。

この雑誌は、そのメンバーであるマイク・Dがつくったものです。「ファンに向けた会報誌をつくろう」というノリから、周りにいたスタッフと一緒にイケてる雑誌をつくっちゃったんです。これが読むとすごく面白い。第3号の特集は、「Moog」というシンセサイザーの特集なんですけど、中を開くと仏教界のトップであるダライ・ラマとの対談記事が載っていたりする。

小林:普通なら、ダライ・ラマを表紙として出すよね(笑)。

尾田:そうなんですよ(笑)。それなのに、「ダライ・ラマよりもMoogのほうが偉い」と言わんばかりに、表紙でも「Moog」を押し出していて。僕はそのキッチュさにやられました。

それと、雑誌の中にアイロンプリントできるシールが付いているんですよ。服にアイロンでくっつければ、表紙と同じ「Moog」のビジュアルがプリントできるというもので。しかも、別に「Moog」とタイアップしているわけでもなくて、広告も何も入っていないのにです。

小林:最高ですね。よっぽど好きだったんだね。

尾田:僕はこれにインスパイアされて、『GiGS』という音楽雑誌にステッカーを付録として付けたことがあります。表紙にGLAYのJIROくんが出てくれたときに、JIROくんが持つベースに貼ってもらって、「この雑誌を買えば、同じステッカーが手に入る」と売り出したら、よく売れました。

当時は「ガジェット」という言葉がまだ新鮮な時代でしたけど、僕は「物」が好きだな、キッチュな感じが好きだな、という気持ちは変わらないですね。今、『GIZMODO JAPAN』というガジェットメディアの編集長をしていますけど、僕が編集者として、物とカルチャーの接点を探り続けている源泉の一つとして、『Grand Royal Magazine』があるかもしれません。

小林:『GIZMODO』の話で言うと、僕がアメリカにライセンス取りに行った相手は、ニック・デントンという、全米でもかなり早い時期にブログでメディアをやった人なんですよ。そのニックに、僕が『WIRED』の日本版をやっていたと話したら、すごく喜んでいて。『WIRED』には、ガジェットだけを取り上げる「Fetish」という連載コーナーがあって、『GIZMODO』はそこから着想を得たと言っていました。だから、『WIRED』がなかったら、『GIZMODO』も生まれてなかったかもしれない。

ちなみにその「Fetish」の担当者だったマイク・フラウエンフェルダーは、ブログメディアで米国一位のPVを稼ぐ『Boing Boing』を立ち上げたり、メーカーズ・ブームを牽引した雑誌『Make』もつくったりしている人物です。

尾田:そうだったんですね。振り返ると僕は、テキストの編集者というより、そうした企画力やデザインも含めた、総合プロデューサー的な視点でメディアに関わってきたと思いますし、それは僕に限らず当時の編集者には、そうした面が少なからずあった気がしますね。実際には、当時もお金が潤沢にあったわけではないので、アイデアで乗り切るところはすごくあったと思います。

小林:Webには表紙がありませんけど、雑誌をつくっていたころは表紙でいつも悩んでいましたよね。表紙だけで売れ行きが決まるから、レコードのジャケ買いのように、雑誌もジャケ買いされるようにと常に考えていましたけど、失敗も多いし、大物を表紙にするためにいかに口説くかも試されていました。そういう意味で、編集というのは、単に誌面をつくるだけではない、違うレイヤーで交渉なども含めての人間力というものが問われましたよね。

|『Dazed & Confused』|

尾田:この雑誌はジェファーソン・ハックという方が編集長で、一時期はモデルのケイト・モスのパートナーだったことでも知られている人です。この人は、ロンドンのカレッジ・オブ・プリンティングという印刷のことを学ぶ公立大学の出身なんですよ。だから、すごく印刷にこだわっている。

当時は『STUDIO VOICE』という雑誌も紙にこだわっていて、ザラザラした退色しやすい特殊な銘柄の紙をあえて使っていました。プリントされるとビビッドに色が出ずに吸い込んじゃうんですけど、そこにローファイな風味が出てカッコよかった。

それと、紙は種類によって厚みが変わるんですよね。書店に置かれてからしばらくすると本棚に入っちゃうので、薄くなると見つけられにくくなるし、安っぽく感じさせるところがあるんですけど、この紙を使うことで5ミリとか3ミリとか厚くなる。ページ数が少なくても立派に見えるということで、みんな真似していました。

90年代の雑誌では、編集長がそうした紙のチョイスや印刷のクオリティーに対しても熟慮していました。ジェファーソン・ハックは、今もプリンティングのプロフェッショナルとして、アレキサンダー・マックイーンというデザイナーとホログラムのデジタル雑誌をつくったり、U2のクリエイティブ・コンサルタントをビョークと協力してやったりと活躍しています。

|『blast』|

尾田:これはシンコー・ミュージックが出していた、知る人ぞ知るヒップホップ専門誌です。『クロスビート』の増刊として出していた雑誌なんですけど、ここだけものすごくアマチュアな編集部で、実は社員編集者は編集長1人だけだったんです。

それ以外はほとんどが、早稲田大学の「GALAXY」というソウルミュージック研究サークル出身のメンバーで、ライムスターの宇田丸さんとか、ジェーン・スーさんとラジオに出ている音楽ジャーナリストの高橋芳朗さんとか、放送作家の古川耕さんとか、今のカルチャー界隈でバリバリに活躍している人たちが、スタッフとしていたんです。他にも、ラッパーのZeebraさんが海外アーティストの通訳を買って出てくれたりとか、今振り返るとオールスターメンバーですね。

編集者かどうか、社員かどうかと関係なく、ヒップホップシーンの当事者たちが編集部に出入りしていたところは、当時の雑誌カルチャーの空気を表していると思います。

|『WIRED』|

尾田:一時休刊する前、『WIRED』の最終号が真っ白い表紙だったのには衝撃を受けましたね。もはや現代アートじゃないですか。キャッチコピーの可読性も何も、文字が一切載っていないんですよ。これに衝撃を受けて、「こんなこと日本でやる人がいるんだ!」とヤラれてしまって。これは誰がつくってたのかというと、もちろん編集長だった小林弘人です(笑)。

あと、これは『サイゾー』創刊の準備をされているころだったと思うんですけど、「編集モンキー」という謎のブログがあって、そこに小林さんは創刊に向けた活動を赤裸々に書いていたんですよ。

小林:業界への批判とか、出版社に発行をお願いして回っても断られた話とか、全部書いていましたね(笑)。

尾田:それを読んだら、これはもうビースティ・ボーイズとか、そういう流れじゃんみたいな。悪ふざけというか、露悪的な感じはない知的なおふざけというか。その知性を感じる悪ふざけみたいなものに、僕のハートはガシっとつかまれて、インフォバーンに入社していました。

小林:ありがとうございます(笑)。表現がアートの枠で括られてしまうと、美術館に並ぶような遠い存在になってしまうけど、それが雑誌だったら、日常生活に美術館側から出向いていくような感覚で表現することができますよね。僕にとっての雑誌というのは、高尚になりすぎずにアート的なインスパイアを与えてくれる装置でもあったんですね。

単に情報が載っているだけじゃなくて、買って持つことで、何かビリビリと影響されるものがある。そこには、タンジブルな良さ(手触り感)、手に取れる物としての強みがあったように思います。

Part1「雑誌カルチャー」とはなんだったのか?
Part3AIを超える編集力とは?
Part4雑誌の精神をどうWebで実現するか?





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