四半世紀モノローグ
その重さに耐えられなくなり、いつしか恐れを抱くようになっていた「言葉」。救われたと感じる時、いつも隣にいたのは、会ったことのない、もうこの世に存在しない人の「言葉」。生身の人間に救いを求めたかったはずの私が、声をあげることを幾度も拒んできたのは、それを伝えることで目の前の人が消えてしまうという強迫観念にも似た思いにあった。
"自分の感情を伝えること"
人生のハードルを著しく困難にさせていたのは、
その行為の難しさにあった。
「もっと気軽に、気楽に。ただ伝えるだけ」
その言葉のわからなさは異常であった。
頭が、伝えられた相手の気持ち、伝えたことで相手に生じる改善行為、自分のために相手のなにかを変えさせて良いのだろうかという気持ち。ずっと駆け巡っていた。
本音を吐露することが、命がなくなると同義であるように思えてならなかったこと。人間として平等に与えられているはずの心が究極にわからなかったということ。
幼き頃から、人が皆、感情を素直に、色彩豊かに欲を表現していることが不思議でたまらなかったこと。
ほしいものがほしいと言えない子であったこと。
対象物を見ていた私を周囲が察して、ほしい?と聞いてくれて、私が「うん」と首を縦に振ってはじめて、ほしいものを手にできたこと。
素直に自分の感情を表現できる人に憧れを抱いていたこと。憧れといっしょに嫉妬していたこと。
人間に生まれたことを心から愉しんでいる人に出会えたこと。そんな人と心に触れ合える瞬間を重ねていたら、いつのまにか心を取り戻していたこと。心の機微を感じられるようになって、人生が色付きはじめていたこと。あなたは私のことをどう定義していたかわからないが、私にとってはあなたが確実に心というものを、心の動かし方を教えてくれた人であったということ。
感情に誠実な人に出会えたこと。「言葉」の温度感が似ていた人。あなたと私に決して嘘をつかなかった人。伝えるより伝えてくれなかったことの方が多かったこと。伝えてくれなかったことが優しさであったと気がつけたこと。いっしょに大人になれるような気がしたこと。健やかなる景色が一瞬でも見れたこと。いつかの幻ではない、今を楽しみながら生きることを教えてくれた人。
「感情を伝えること」が、自分を理解してもらえないのなら、伝える意味はないと思っていたこと。逆に相手から感情を伝えられたなら、理解しなければならないと固執していたこと。いくら相手の理解に努めたとて、相手は一向に私を理解してくれていない矛盾でいっぱいだったこと。いっしょにいたいなら、相手のすべてを理解しなければいけないと思い込んでいたこと。相手を背負わなければ、幸せな関係は築けないと思っていたこと。理解するためなら、自分が感じている心は二の次でいいと思っていたこと。その正体が健全な愛だと思っていたこと。
「貴方」が信じている「私」が愛されているだけで、本音の「私」が愛されているわけではない。「愛している」の言葉は、「私」ではなく、「貴方」に向けているのでしょう。互いの歩んだ道のり故に、「貴方」は「私」がわからない。「貴方」を尊重できるいちばんの方法。それはきっと今の距離から少し離れたところで私が生きていくということ。伝えても変わることがなかったそのままの「貴方」を愛そう。ならば、相手のなにかを変えようとはしなくていい。私が感じているこの「心」の問題を明け渡すことなど、相手に背負わせることと同義である。ならば、一層相手が抱えなくてもよい距離まで離れていよう。そうして築ける関係もきっとあるはずで、恋愛という枠だけがすべてではない。人間関係における元来の意味。友情に似た親愛の上で、恋愛は成り立つと思ったこと。
「心」を理解したつもりでいる多くの人々が、強い依存関係を築いていたこと。三次元的な、物質主義の中で感じる感情に、良し悪しをつけ、値踏みし、淘汰されていったこと。五次元的な、精神主義の中で感じる感情に、良し悪しなどなく、ただ感じるだけでいい。むしろ感情は感じ切るためにあるのだということ。感じている感情、心からの願いを無視し、社会的な、第三者からみてどうかを元にして行動しても、永遠に満たされない結果しか生まないこと。一人一人が本心以外の行動しか取らなくなれば、混乱を生むのではなく、むしろ安心、寛ぎと穏やかさに包まれ、世界は循環し、自然と同化するようになると理解したこと。
人生の課題は、本心でコミニュケーションをとり、交流していくことにあること。この世の真理やいつかの未来のために、先を見続けることばかりしていても、人生は進まないとわかったこと。むしろそれは遥か遠い過去からの手土産のようなものに思えたこと。
人生が進む秘訣は、軽やかさにあるということ。
ただ「今」を感じ、楽しみながら歩いていく。
明日のことなど、明日が考えばいい。
今後一切、なにをどこまでやれたのかを目印にして、
歩いていかなくてもいいということ。
なにかをクリアするための困難さはいらない。
日々を楽しみ、ゆっくり歩いて、安心の中で、楽しみながらクリアすることこそ、私の人生そのものであること。
心を解放をし、遊び尽くすような人生に再構築する。
意志に似た心を解き放ち、歩いていれば、
それが循環し、巡り巡って私に帰ってくること。
混沌に隠れ潜む宝こそ、本来の美しさであったこと。
闇と感じていた過去はやがて明日を照らす光となる。
過去は変えられないと嘆いた日々すらもまるっと包み、
この日のために今日まで歩いてきたのだと続く道が、
まだまだ残されているのだということ。
見れたはずの景色は水の奥底に沈んだままではなく、
これからなのだということ。
だれかのなにかを背負う必要はもうないのだということ。
たったひとりの私に捧ぐ人生であれ。
人間を思う存分楽しみ、謳歌してこその私であること。
日々に幸せがありふれるほどに溢れていること。
その尊き日々の中、目を凝らし、ただ楽しむように過ごすだけで、人生は愛情に包まれ、満ちてゆき、軽やかさを味方につけることができること。私の真理に辿りついた時、となりにはあなたが証明となって存在するのだということ。
そんないつかの「あなた」を、いや、すでに存在している「あなた」をわたしはこれからもいちばん近くで、いつものあの席に座って、待っています。
わたしのしあわせは、わたしの心に、感情にある。
しあわせはいつかではなく、「今」すでに存在していること。通り過ぎる日々の中に隠れていること。それに気がつくことがしあわせなのだということ。戻れないあの頃、まだ来ぬいつかに想い馳せるのではなく、「今」この瞬間から、しあわせはあるのだということ。