善き苦労人
「二種の苦労人」
森信三は、お互いこの世に生きるからには、苦労するということを避けられないと説いている。
また苦労しないと人間の本当の値打ちも出てこないと言っている。
「しかし、ここで気をつけなければならぬことは、なるほど苦労というものは、その人から甘さをとって、一応しっかりさせることとは言えましょう。しかし同時に、そこには二種の違ったタイプの苦労人が出来上がるようです」とも語っているのである。
「つまりお目出たさがなくなって、甘さが消えたという点では同じですが、しかし苦労したために、人の苦しみに対してもよく察しができて、同情心を持つようになる場合と、反対に苦労したために、かえって人間がえぐくなる場合とがあるようです。つまり苦労したために、表面的なお目出たさや甘さがなくなると共に、そこに、何とも言えない柔かな思いやりのある人柄になる人と、反対に苦労したことによって人間がえぐくなって、他人に対する思いやりが、さっぱりなくなる人とがあるようです。つまり私が見るに、同じく苦労しながらも、このように人間が、二種のタイプに分かれると思うのです。」とある。
「修身教授録~森信三より」
ここで、なぜ同じ苦労人なのに、苦労を糧として、思いやりがあり、穏やかな人物になる人と、人間がえぐくなる人があるのか。それを考えたわけである。
どうせ苦労人になるならば、苦労を肥やしとし、柔和な人物となりたいと願ったわけである。
だから、二種の苦労人について、何が明暗を分けるのか。これを考えてきたのである。
思うに、それは、感謝の念の多寡に
ある。
思うにそれは、感謝の念の量にあり、質にある。
感謝の念の深い人は、自らの苦労に感謝し、それを糧としてしまうのである。
苦労は決して悪いことじゃないと、
本質的に理解しているため、苦労を恐れず、泰然とした態度で生きることができるのである。
一方、感謝の念の浅い人は、自らの
苦労を忌み嫌い、その経験を
深く後悔しているのである。
「あれさえなければ」と恨み節を
言っているのである。
それゆえ、再び苦労することを
非常に恐れ、いつ火の粉が降りかかってくるか、いつもビクビク、ピリピリしているのである。
人間がえぐくなるのは、このためで
ある。
だから、善き苦労人になりたいならば、感謝多き人間になれば良いの
である。
感謝多き人間となれば、最悪に見える苦労にさえも、その意味に気づき、
感謝できるからである。
そして、感謝多き人間とは、
例外なく、両親、祖父母、ご先祖に
感謝している人物なのである。
だから、命の元である、両親の愛を
思いだし、感謝の念を深めること。
これが生きる上で、とても大事となる
わけである。
人間は、出会う苦労の大きさに
よって、えぐくなるのではなく、
感謝の浅さによって、苦労に感謝できないから、えぐくなるのである。
苦労は避けては通れないのだから、
どうせならば、善き苦労人になりたいものである。