見出し画像

自由とは何ぞや

人間とは面倒なものである。
日頃は、自由に振る舞いたいと思っていても、
いざ「どうぞ、ご自由に」と言われると、
さて何をしてよいのやら分からなくなる。

現代では息子や娘が必ずしも
<家>を継がなくてもよい。
個性を活かして自由に職業を
選択しなさいと言われる。

すると自分のしたいことは何かに悩み、
自分の個性や天職を求め続けて、
いつまで経っても職に就けない。
“自由”に生きることは難しい。

やや旧聞に属するが、ブッシュ大統領は、
再選後の演説で「自由のために戦うならば、
アメリカはあなた方の味方だ」と語り、
盛んに<恐怖からの自由>を強調した。

このような“自由”は<○○からの自由>である。
私たちも同じような意味で、
自由の語を使っている。

文久二年(一八六二)に出た
『英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書』では
freedomの訳語を「自由」としている。
これは束縛や拘束からの自由である。

仏教も“自由”の語を大切にするが、
その意味は異なる。

自由の「由」は<よる><もとづく>と
いう意であるから他に由らず、独立して、
自存すること、即ち<自らにもとづく>
<自らによる>ことが“自由”である。

晩年のブッダは、弟子達に
「自らをよりどころとし、他のものを、
よりどころとせずにあれ」と教えられた。

我々の行動の判断は、自らに由るよりも、
むしろ他の意見や権力によって
支配されることが多い。

そこには自由がない。
だからブッダは「自らによれ」と
教えられたのである。
~木村宣彰氏の言葉~

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?