何だかんだ続けてきたこと
「人は何のために生きるんですか。」
九歳の詩さんからの質問に森山直太朗氏は、次のような手紙で答えている。
「何のために生きるのか。大人と言われる歳になった僕も、時折考えては、その答えを先送りにして、今まで生きてきたように思います。僕は、歌を作ったり、その歌を歌ったりすることを仕事にしているんだけど、ちょうど一年くらい前に、思うように声が出なくなってしまいました。病院で検査してもらい何の問題もないのに声が出ない。歌うことを嫌いになったわけでもないのに。大好きではじめた音楽だったのに、いつからか、誰かにほめられるため、誰かの機嫌を良くするために、歌を歌っていた気がします。そのことに、僕の心の中にいる本当の自分が、いよいよ怒ったのかもしれませんね。ありのままの自分で表現すること。そのことのために僕は生きているんだと思いました。一方で、言葉でいうほど簡単なことでもありません。どうやら人は、何らかの役割を持って生まれてきています。役割というのは、いいかえれば、なんだかんだ続けられていることです。そのことが誰かの役に立ったり、心の癒しになった時、それが自分の生きがいや生きてゆく糧になる。人は誰しも自分を表現しながら生き、いつの日かその役目を終えます。詩さんにとって、ワクワクできて面白いことが、なんだかんだ続けられていくことだと思うよ。もう見つかったかな。それともまだ選んでいる最中かな?そのことを探し見つけてゆく旅を、人は人生と呼ぶんだと思います」
「教えて先生 ! 森山直太朗編」より
自分にとって、「なんだかんだ続けられていること」とは、いったい何なのかを考えたわけである。
それは、人生に対する素朴な疑問を問い続けてきたことである。
「人はなぜ生きるのか」
辛く苦しいことに直面するたびに、
このまま消えてしまえば、どんなにか楽だろう。そう思うような人間だったからである。
ただ、九歳の詩さんのように、誰かに尋ねることはしなかったのである。
それは、両親をはじめ、周囲の大人に、そのような問いをしても、答えに窮するだけであり、恥をかかせてはならないと子どもなりに考えていたからである。
だから、自分なりの正解を見つけるために、これまでの人生を使ってきたのである。
人生とはいったい何なのか?
この答えを自らの人生で、つかみたかったからである。
そして、ようやっと自らの表現したいことが、明らかになってきたのである。
ようやっと自らの役割に、気づいてきたわけである。
「なぜ生きるのか」
この問いをなんだかんだ発し続けてきたからである。