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太宰治『御伽草紙』 感想文

「前書き」で防空壕の場面が描写されています。この場面では「太宰」、妻、子どもたちが「誰か」に客観的に描写されています。おそらくこれは、いまから幕を上げる物語は風刺的、寓意的なものだと読者に示しているのだと思います。漱石の『吾輩は猫である』も同じ物語構造で組まれています。こちらは「猫」によって、「漱石」とその家族たち、訪問者などが客観的に描写されていました。


瘤取り

著者は風景のための風景描写ではなく、物語を運ぶための風景描写をしています。たとえば、作中人物を孤立させるために「雨」を降らせたり、彼岸人物と出会う前触れとして「月」を浮かばせています。これらの技法はほかの著者たちもよく使いますが、著者の「物語作者」はこの技法をあざやかに使っています。また、原文のように見せたカタカナ描写で物語を運ぶことで、物語が自然体で駆動しています。太宰は物語の進め方がうまいです。

著者は「防空壕に居るから物語の考証ができない」ようなことを書いています。もちろんこの部分は「反語」です。僕は「瘤取り」を読んで、「反語」の匂いを感じたところが何か所かありました。権威主義や文壇を揶揄する描写にそれを感じました。


浦島さん

この物語の浦島太郎は著者の長兄がモデルなのでは? と感じました。亀の造形の一部分は著者がモデルだと思います。著者は「中心」に存在している人(浦島)と、「周辺」に追いやられた人(亀)を物語に登場させています。この技法は『右大臣実朝』の実朝と公暁の関係においても使われています。そのさい「周辺」の人(亀、公暁)が饒舌で多少自虐的になるところも同じです。浦島が亀を助けるのは、長兄が太宰を或る活動から離脱させたことと重ねていると思います。

太宰は長兄に尊敬と恨みが交じり合った感情を持っていたのかな? 著者は「浦島さん」で竜宮城(「お伽の世界」)をうまく描いています。示唆するような書き方で、浦島太郎が乙姫と関係を持ったことが描かれてもいます。著者は男女の恋愛は描いても、性の関係はほとんど描きません。太宰は「物語作者」の力量で読者に評価されたかったのかな? 


カチカチ山

美から醜に変わったり、醜から美に変わる現象は、文学ではしばしば取りあげられています。文学世界だけではなく現実社会においても、なにかのきっかけで(昔話の場合は「魔法」を掛けられて)、醜に変わってしまった方がいると思います。そこからなんらかの方法で(昔話の場合は「魔法」が解けて)、美に戻る方がいます。「カチカチ山」の狸は、以上のような性格としては造形されていません。もしもこの物語のような「醜い狸」が、「魔法」が解けて「美しい狸」に変わったら、「兎」はどんな態度をとるか、少し意地悪く考えてしまいます。男女の立場が逆転した場合も考慮してですが、現実社会で似たことがおきたとき、“彼女”は「浮かれるか悲しむか」どちらでしょうか。


舌切雀

『御伽草紙』は風刺と寓意を効かせ、喜劇的に物語が描かれています。そのためか、「舌切雀」は破滅から再生する話ですが、そういった物語に付随しがちな悲劇性は薄められていると感じました。たとえば大江の『万延元年のフットボール』は破滅と再生の物語であり、悲劇的な要素が強く、“本当の事を言う”ことが物語の主軸を構成しています。「舌切雀」でも“本当の事を言う”ことが、物語に大切な色彩を与えています。けれど、「舌切雀」(喜劇的物語)と『万延元年のフットボール』(悲劇的物語)では、物語の匂いが違います。僕は「舌切雀」を読み、物語形式が異なると、作品のおもむきが変わることを再確認できました。


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