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インクルーシブ教育と子どもの持ち味

 2024年の夏休みは、大阪府のT市の小学校での校内研修や二つの自治体での小・中学校の先生方に対するインクルーシブ教育に関する研修を行いました。
 その一つはS市での教職員の研修で、人権教育の研修の一講座として担当させてもらいました。S市は、大規模なインクルーシブ教育のオンライン学習会を定期的に開催している東京大学・バリアフリー教育開発センターと提携して、インクルーシブ教育推進の取り組みを行っており、「インクルーシブな学校づくりハンドブック」を刊行しています。
 そのようなインクルーシブ教育に前向きなS市でしたので、先生方の聞いてくれる反応もとてもいいかんじでした。また、話が一方通行にならないように、休憩をはさんで、S市の何人かの先生方から「共に学び育つ」子どもの姿が見えたエピソードも話してもらいました。

 この場でも紹介しているような、オーストラリアのインクルーシブ教育宣言カナダの取り組み、障害者権利条約の話、そのほか、いろいろなインクルーシブ教育について話させてもらったのですが、以下のようなことを中心に、私のよく知っている学校のことなどを紹介させてもらいながら説明させてもらいました。

 今回は人権教育の講座の一つでもあり、インクルーシブ教育と人権教育のつながりに重点を置き、「ともに学びともに育つ」教育が成り立つように子どもの「集団づくり」の大切さを話しました。(いきなり、下のまとめのスライドですが)3点目に挙げていますように、「子どもたちの関わりあいの中で「持ち味」を見出そうとすることが大切」だと述べました。
 これについて「インクルーシブ保育」を長年研究されてきた浜谷直人さんの本の一部を紹介したいと思って印刷配布してもらっていましたが、残念ながら時間が足りずにこちらの説明ができませんでした(お土産として持って帰ってもらうことになりました)。

 その一文とは、「持ち味は、驚いたり、感心したり、共感したり、感謝したりするもので、ほめるものではない」というものです。大阪府の人権教育の文脈では、子ども一人ひとりの個性・よさを「持ち味」という言葉で表現することが多いです。学級づくりについてある先生が話していたとして、その先生が子どもの個性のことを「持ち味」と語っていたら、大阪府の先生の可能性が高いでしょう。ただ、不思議なことに、浜谷直人さんは、子どもの個性のことをずっと以前から「持ち味」として表現されていたようです。「持ち味」は、その子が大好きなこと、夢中になっていること、こだわっていること、表現やふるまいのその子らしさ…などなど、「それぞれに価値あるものとして大切にしたい特徴であり、尊重されるべき子どもの多様性」(p.27)です。そして、それは、評価的な視点をもって「ほめる」のではなく、「驚いたり、感心したり、共感したり、感謝したりするもの」だと浜谷さんは指摘します。この「驚いたり…」の主語は、先生であり、また、クラスの子どもたちです。子どもたちの日常の関わり合いの中で、そうした一人ひとりの「持ち味」が浮かびあがり、共有されることが大切です。
 また、講座の中で紹介したかったのは(実際、時間がなくて十分に話せななくて悔やまれますが)、本記事の最後に紹介している文献の一つ『すべての子どもの権利を実現するインクルーシブ保育へ』(ひとなる書房・2023年)で浜谷さんが書かれている一節です(下のスライド参照)。

 学校の教育活動の中で、何かが「できる/できない」の基準で序列づけられるのではなく、それぞれが比べることができない、かけがえのない「持ち味」をもつ存在として認め合える、それが真にインクルーシブな環境だと言えるでしょう。そのような状況は理想に過ぎないと思われるかもしれませんが、しかし、それこそがインクルーシブ教育の目指すところだと言えるでしょう。
 「持ち味」は、子どもたちの日常の関わりあいのなかで、浮かび上がり、発見され、認められ、また、上に浜谷さんが書かれているように子どもたちの中で「お互いに磨かれる」ものなのかもしれません。
 教員がそれを「ほめるものではない」と言っているのは、「ほめる」というのは常に何かが「できたから」「上手だから」と、教員目線の価値づけで優れたものばかりを「持ち味」として浮かび上がらせ、子どもたちに認めさせることにつながるからだと言えます。そのやり方では、一般的な学級と同様、「ほめられる」子だけがその「持ち味」を認められ、あまり「ほめられない」子は「持ち味」を見出されず埋もれたままということになります。教員の「ほめる」目線の背景には、学校の教育目標やカリキュラム、道徳の評価基準も介在しています。
 「できる/できない」という基準ではなく、その子の「持ち味」を浮かび上がらせていくためには「ほめる」のではなく、もっと違った方法を駆使してそれを行う必要があります。それが「驚いたり、感心したり、共感したり、感謝したりする」ことだと言えます。あるいは「面白がる」といったことも入るかもしれません。そういった「持ち味」が子どもたちにあれこれと見いだされていくためには、評価基準が一元的になる、画一的で知識伝達的な授業をしていてはだめということになります。子どもがいきいきと動いたり関わりあっていくような場や活動が求められますし、その中で、子どもの「持ち味」を見出していくような教師の観察力や共感力は非常に重要だといえます。
 基本的に学校の教育活動は、その評価規準の中で「できない」ことが多い子の「持ち味」が見えなくなってしまうようなバイアスがかかっているといえます。そんなバイアスがある中で、教員はそのバイアスに負けないように観察力や共感力を磨いて、子どもの「持ち味」を見出して、そこに光が当たるようにしなければなりません。
 そうした子どもの「持ち味」に「驚いたり、感心したり、共感したり、感謝したりする」教師の姿は、絵本「からすたろう」で太郎の「持ち味」を見出したいそべ先生の関わり方に見出すことができます。そういう意味では「からすたろう」のいそべ先生は戦前のインクルーシブな教育観をもった教師というふうにみることができるかもしれません。(尻切れトンボ気味ですが、長くなりましたので、ここでいったん終わります)

2024年8月のS市の小・中教員研修で紹介した本です。

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