私のニーチェ観~道徳的でない人間の生き方

こんにちは。

今回はプリキュアの考察を離れ、私の好きな哲学者の一人であるニーチェについて書いていこうと思います。

私は道徳や倫理について考えるのは好きなのですが、人に気を遣ったり親切にしたりといったことを進んでするような人間ではありません。一方で、私は自ら進んで悪を為そうとは思いませんし、自分の負担にならない範囲でなら、人の助けになりたいという気持ちもあります。しかしそれは元をたどれば、他者からの感謝が得たいなどの利己的な動機から生じた行動にすぎません。だからこそ、道徳とは何か、何をすべきかの指針が欲しくなってしまうのです。

ニーチェの思想は、そんな私のような道徳的なふりをした人間に一つの現実を突きつけます。彼の著書「道徳の系譜学」から、善人について述べた箇所を引用します。

彼らは主張する、「われわれだけが善人なのだ。正しきものなのだ、われわれだけが善意の人間なのだ。」と。(中略)――あたかも健康であること、出来の良い人間であること、強い者であること、誇りの高い者であること、自分の力を感じる者であることが、それだけで品の悪いことであるかのように、人はそのことのために償いをすることを迫られるかのように、しかも手酷い償いを強いられるかのように、である。

[中山元訳,2009「道徳の系譜学」Ⅲ十四 光文社]

これを読んでどのように感じるでしょうか。私はまさにその通りだと同意してしまいます。いくら道徳的人間として生きていても、その根底には結局、他者に優越したいなどの利己的な動機があるはずで、自分が道徳的だと思っている人間は単にそのことに気がついていないだと、そう思えてしまいます。

(ニーチェの善人と悪人については、ヒーリングっどプリキュア考察でも少し触れましたので、よければそちらもご覧ください)

ところが(当然ですが)すべての人が彼の主張に納得するわけではまりません。しかも、どうやら彼らのなかにはニーチェへの理解が足りないのではなく、本当に自然に道徳を受け入れられているため、彼の批判に影響されないという人もいるようなのです。これは私のような人間にとっては厳しい現実です。というのも、人類は皆善人のように生きていても実際は利己的なのだから、私がその一人であっても仕方がないと開き直ることが許されなくなってしまうからです。

しかも、善人=弱者である人間は、自ら行動を変えることで強者として生きるという道は閉ざされています。というのも、ニーチェは自由意志の存在に否定的だからです。

意志という考えは、元をただせば処罰を目的として、つまり罪あるものとみなしたいという欲求を目的として捏造されたものである。(中略)人間は、裁かれうるために、罰せられうるために、――つまり罪あるものとなりうるために、「自由」であると考えられた。

[村井則夫訳, 2019「偶像の黄昏」『四つの大きな誤謬』七 河出文庫]

ニーチェは自由意志を捏造された者であると断じます。自由意志があることで、私たちは行為の責任を負うことになるからです。これは逆に言えば、本来は自由意志というものはなく、私たちの行動はある程度決定されているということを意味します。したがって、われわれは自らの意志で、善人=弱者から脱することはできないのです。(今回はこの点について、これ以上深入りはしませんが、Brian Leiterというアメリカのニーチェ研究者が、行為の原因を人間のタイプ事実に見る解釈などを提示していますので、またの機会に紹介できたらと思います)

ではニーチェを読むことに意味はなく、彼の思想は結局、偽りの道徳に身を包んだ人間に対して事実を突きつけるだけなのでしょうか。私はそうは思いません。ニーチェの背中を追うことのできる強い者だけでなく、弱者も彼の思想に惹かれるならば、きっと後者にとってもニーチェを読む意義はあるはずです。その検討が今後の課題になりそうです。

ニーチェについてはまだまだ書き足りないこともありますが、今回はこのあたりで締めようと思います。それでは。

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