情報空間が取り持つ非対称のリアリティ|稲見昌彦×尾原和啓対談シリーズ 第1話
イントロダクション
稲見 まず最初にお伺いしたいのですけれども、今日は日本国内にいらっしゃるんですか。それとも。
尾原 今日、シンガポールです。
稲見 シンガポールなんですね。尾原さんって、コロナの前からずっとリモートワークをされていて、実際に他の人たちがようやくオンライン側に来るようになって、何か違いを感じたことはありますか。
尾原 そうですね。僕自身はよく自己紹介するときに、海外に出るときは、コロナ前ってこういうロボットで行ったんですね。「Double」ってやつですけども。
稲見 はい。うちのラボにも何台かあります。
尾原 5年前に、うちの娘をバリ島にあるグリーンスクールっていう学校に入れたくて、バリ島に引っ越したんです。バリのウブドの山奥にあって、壁がなくて、世界30カ国から生徒が集まっていて、プロジェクト学習しますみたいな学校で。
ただ、やっぱり稼ぎは日本がベースにあったので、さっきのDoubleを使って、六本木ヒルズにあったオフィスに勤めていたんです。当時、Fringe81っていう会社の執行役員をしながら、リモートで生活してたんですね。
先方がフィジカルな存在を求めるので、仕方なくフィジカルに受肉する形で動いてたんですけど、コロナになって、先方も「別にリモートでオッケーですよ」ってなりました。今やテレビのコメンテーターとかラジオの出演みたいのもリモートで普通にできますし。
あと、サウス・バイ・サウスウエストが2年ぶりに開催して、アメリカのオースティンでリアルでやったんですけど、今回僕はあえてバーチャルで参加したんです。リアルのカンファレンスですら、登壇する側、カンファレンスのルームを持ってる方々含めて、バーチャルで参加する人もいる前提で動いてくれているので、取材も全然問題なくできて。ハイブリッドというか、むしろこれからバーチャル多めで動いていいなって感覚ですよね。
稲見 我々のERATOというプロジェクトもブランチがヨーロッパにあったり、以前は在外研究中の先生がワシントンD.C.にいらっしゃったりして、ミーティングは世界3拠点をつなぎながらやっています。どこかが時差負けしてしまうんですが。
尾原 (笑)
稲見 ただ、当時からちょっと気になっていて、今でもなかなか難しいなというのが、ハイブリッドの難しさと申しましょうか。いっそのことみんなデジタルなら学生も対等に話せますが、フィジカルとデジタルが混じったときのデジタルの質量の少なさといいますか。
例えば研究室のミーティングでも、みんながラボに集まっていて私が遠隔にいるときは、みんな私の話を聞いてくれるんですね。PI(principal investigator)っていうか、教授なので。尾原さんも役員だったので、きっと皆さんは聞いてくれる。ただ、もしそれが取締役会とか教員会議で、私1人だけが遠隔だったりすると、多分、忘れ去られた存在になりやすいんですね。その非対称性を担保する仕組みって、まだ世の中ないなと。
一時期、ばーんと全部オンラインになった講義も、4月からはどんどんハイブリッドメインでやっていこうって議論になってるんですが、それって遠隔側の学生が置いてけぼりになっちゃうんじゃないかという懸念があって。
そこら辺のフィジカル・デジタルのバランスをうまく担保する例とかご存じだったりします?Doubleみたいなロボットを使って、物理身体から少し注目を集めるやり方もあると思いますけれど……。
尾原 そうですね。例えば僕はoVice(オヴィス)ってやつをよく使ってるんですけど、要は2次元でバーチャルなオフィスを実現していて、自分はアイコンで動くんですね。
会議室みたいに外から見えないクローズドな場所もできれば、3人掛けに座ってると必然的にあと2人座っていいんだなとか、壁に向かった自習室にいると「話し掛けてこないでね」みたいに、暗黙のコミュニケーションの隙間みたいなことがアフォーダンス的に表されている。なので、フラッとしたコミュニケーションをしたいときには、これをずっと立ち上げておくみたいなことは割とやってたりとか。
例えばワールドカフェのように、5人掛けの机がたくさんありますよ、みたいなものもあれば、パーティールームみたいな感じで、みんながうろうろしてて、近づけば話せるよっていう形の背景にしたりとか。ないしはテントみたいな、カンファレンスみたいな形で、みんなが登壇者を見て、後ろで聞くっていうのも選べる。
コミュニケーションスタイルに対する僕たちの思い込みを、背景画像が刺激してくれる。ここはカフェだから座ってしゃべっていいよね、ここはアンカンファレンス的な会議として、空いてるテーブルに座って、テーブルごとで議論をするのね、講義スタイルの時は講義だよね……というふうに、バックグラウンドの画面でコミュニケーションのフラットさだったり偶発性をコントロールできるのが面白いところですね。
物理空間のレガシーを超えて
稲見 そちら側の話になったので、どうなのかなってふわっと思っていていることを、この機会にお伺いしたいと思います。oViceとかバーチャル渋谷とか、(現実の環境をバーチャル空間として再現した)デジタルツイン的なやり方というのは、逆にまだデジタルネイティブじゃない人向けの導入用インタフェースに過ぎないんじゃないかという気がしていて。
尾原 おっしゃるとおりですね。
稲見 例えばコンピュータにおけるデータの整理の仕方として、以前はディレクトリモデルとかフォルダモデルといった、机や引き出しみたいな物理世界の情報整理のメタファーをずっと使ってきた。ようやく検索なりタグなりで、新しい情報ネイティブな構造化が一般化してきましたよね。
現在のオンラインでのコミュニティとかコミュニケーションのやり方は、初めてオンラインを使う人がいるので、段差をなくすためのスロープとして、こういう(デジタルツインのような)ものを付けるのはよく分かります。私自身も分かりやすいなと思いますし。
一方で、この物理的な世界のレガシーに引きずられない、オンラインならではの、つまり検索やタグに相当するような、コミュニティやコミュニケーションのやり方はあるんでしょうか。そこまで行かないと、DXにならないと思うんですよね。
尾原 そうですね。僕自身はこういうフレームワークで説明をしてて。
人間のコミュニケーションって、何か明確に目的があってやってる行動と、実は目的がないんだけれども、一緒にいる中で何かが立ち上がってくる非目的型ってやつがある。それとは別に、みんなでやるケースと1人でやるケースもあって、これら2つの軸がつくる4象限の中で進化をどう考えていくのかと。
コロナの前でも「みんなで目的をDoする」に関しては、Zoomだったり、Slackだったり、Teamsだったりで間に合ったし、モバイルとかWi-Fiの通信速度も足りてたから救われた。
ただ、この図の第2象限、何となく一緒にいることで何かが蓄積されて、何かをトリガーとして何かがエマージェントしてくることに関しては、全然まだ足りてないのも事実です。一方で、コロナでみんなが家でずっと仕事するようになったから、(第3象限の)非目的型で1人でやる行為、「独りで自分らしさを取り戻す」っていうのも結構、空洞化してて。ここはここで掘ったほうがいいなって個人的に思っています。
稲見先生のさっきの話に戻ると、やっぱりフィジカルの強さって、みんなで非目的的に集まったときにも何らかの集合性が生まれること。その集合性を生むサインが、非常にノンバーバルなんだけれども(豊富にあって)、いろんな偶発性と志向性を持つところが面白いわけですよね。
それがどうしてもネット空間だとハッシュタグとか、そういう明示的な(サインの)中でしか集まれない。ハッシュタグの中で「旅行好き、集まれ」とか、「今日、寂しい気持ちみたいな人、集まれ」みたいな形で。
けれども、例えばアバターコミュニケーションだと「そのアバターってことは、おまえ、ロック好き?」みたいな方向から見る人もいれば、「いや、そういう何かモノトーンな感じ、好きっす」って感じで集まる者もあればっていうふうに、言語を介さずに、いろんなハッシュタグが折り畳まれてる。つまり、(物理世界の)非言語のハッシュタグの多重性を、(バーチャルなコミュニティで)どう代替してくかって話だと思うんですけど。
情報ネイティブ向けの講義
稲見 何かそれが上書きできるぐらいまでなるとかっこいいんですけどね。尾原さん今、これmmhmm(ンーフー)ですか?
尾原 はい、mmhmmです。
稲見 mmhmmのプレゼンって、もはや教室でのプレゼンよりも分かりやすいときもあるじゃないですか。
私がハイブリッドで講義が始まったときにすごい驚いたのが、講義室に学生が何十人もいるんだけれども、みんなスライドとかは(手元のタブレットやスマホを使って)Zoomで視聴するようになったんですね。
対面の講義を復活しようって話があったときに、ある先生が「だったら講義室にもっとモニターをたくさん付けないと駄目じゃないですか」「この機会に付けましょう」みたいな話をしたんです。でも、私が授業をやってる感じだと、むしろ逆、そうじゃなくってWi-Fiを増強する方がめちゃくちゃ大切だと。
もはやそのモニターの画面を学生は見てなくてZoomを通して講義を聴くし、さらにその中でメモを取ることに最適化している。そういう意味では、マイクやディスプレーを増やすことによって今までの講義を拡張するのではなくて、(オンラインの)情報機能を拡張してデジタル講義ネイティブの学生たちが普通の講義になじみやすいようにした方がいいんじゃないかという議論になったりします。
さらに、その講義の中でチームを分けて議論しなさいとなると、チームに5人か6人いるうち1人や2人は遠隔にいたりする。そうすると学生は自分のタブレットとかノートパソコンをテーブルに上げて、ハイブリッドでアイディエーションを始めたりします。大学2年生なので、まさにオンラインネイティブの学生たちなんですよね。
それを見ていると、今まで物理世界で議論してきたことを頑張ってデジタル化しましょうという方向とは、ちょっと違う思考構造とコミュニケーション様式を持った新世代が生まれつつあるんじゃないかという気がして。だったら、その人たちにとって最適な環境って何だろう。そこから講義のDX的なことを考えなくちゃいけないと思い始めたんですね。そういう人たちがこの後、2年ぐらいすると社会に出る。そうなったときのビジョンを、尾原さんも『仮想空間シフト』など、著作の中で書かれています。
一方で、そもそも仕事とか講義とか体系化・構造化された取り組みって、ある意味で既に何らかのバーチャル化がなされたものだったんじゃないかと。バーチャル空間に一番シフトしやすいのがたまたま仕事だったんじゃないかという気もするんですけど、いかがですか。
尾原 そうですね。僕は「プロジェクトなのか、コミュニティなのか」っていう言い方をしています。プロジェクトっていうのは、 「やること」から始まるわけですよね。常に目的があって、それを達成するために人が集う。
しかも、目的が複雑になると異なる人が集まってこないと達成できないので、人を集めるためにはどういうふうに物事をすればいいかっていう形でツール群が進化していく。それが仕事っていわれているし、目的に対して自分の役割をどういうふうに細分化して、それをどう全うするかが問題になる。そういう話(目的や役割分担が明確)なので、非常に仮想空間に乗っかりやすいと。
それに対してコミュニティは、いることから始まるので、どういう人がいるといいんだろうって話とか、目的がなくてもそこに居続けたいって思わせるには、居心地の良さを感じさせなきゃいけなくて。それを仮想空間の中でどうつくっていくかについては、まだ非常に未発達で。その進化をメタバースが解消してくれるのか、それとも「いやいやいや、むしろDiscordみたいに情報量を減らした方が居心地感じられるんだぜ」ってこともあるし。
仕事に対して居場所、(4象限の図の)Do(目的型)に対してBe(非目的型)は、バーチャルシフトに関して居心地の最適化など、まだまだ未研究な領域が多いと思うんですね。
非対称がつくる居心地
稲見 居心地って、物理世界だとものすごい多様じゃないですか。みんながみんな、スターバックスにいればサードプレースで幸せかっていうと、そうじゃない人もたくさんいる。ただ、異なる居心地の良さを持つ人たちが結果的にオンラインでつながってるのは、ある居心地がいい場所がバーチャル世界にあって、そこを居心地がいいと思う人が集まるのとは、ちょっと違う考え方だと思うんですね。
尾原 そもそも居心地って、何を気持ち悪いと思うのかの裏返しなので、美しいと思うものができてしまった人であればあるほど、美しくないことに居心地(の悪さ)を感じてしまう。僕は例えばこういう部屋って居心地がいいんですけど、こういうものに美しさを感じられない人は居心地が悪い。
そういうフィジカルなものが持つ美学みたいなフィルター性もあれば、Googleの「アリストテレスプロジェクト」から出てきた、社会的なサイコロジカル・セーフティ(心理的安全性)という要素もあって。結局、人間って相手との関係性の中で(存在が)立ち上がる生き物なので、自分が一人の個人ではなく「単なる機械の一部じゃん」って相手から思われたりとか、場合によっては存在自体を否定されるような表現をされてしまったら、居心地の悪さを感じてしまう。
居心地って美学的な居心地と社会関係性的な居心地という2つがあるので、ややこしいなとは思うんですね。
稲見 そうした社会的な居心地の良さも含めて、それこそ生物多様性ではないですけれども、様々な自然環境のどこにどういう生物がいるかは環境への適応性によって変わるし、場合によってはビーバーみたいに自分たちにとって居心地のいい環境をつくろうという関係性は、物理世界の話としてはよく分かるんです。
ただ、先ほど申し上げた(バーチャル空間における居心地の)話がどういうことかというと、こうやってZoomをしていて、例えば尾原さんにとって素敵な背景とか部屋があったりするじゃないですか。尾原さんご自身にとってはそこにいるように見えるけれども、もしかすると何らかの機能を使って、私から見たときの尾原さんの背景は違うものに差し替えられますよね。
尾原 そうですね。当然できちゃう。
稲見 もしかすると、そちらの方が私にとっては居心地がいいかもしれない。つまり、個人に見える世界と、端から見える世界で非対称な世界をつくれるのも、すごいデジタルの価値だと思うんですね。そこの可能性を追求していくと、デジタル世界でどんどん広がりつつある分断に対して、ちょっと違った解決法になる気がして。
尾原 いや、めちゃめちゃあるんじゃないですか。おっしゃるように、バーチャルフィルターを使うことで、僕が見てる稲見さんは、もしかしたらバ美肉した美少女として映されていて、声もボイスチェンジャーで美少女のように聞こえてるかもしれない。それぐらい、相互の主観ってもはやフィルター可能なものなわけです。
そもそも僕、告白すると今、稲見さんの画像、見てないんですね。なぜかっていうと、僕って、フォトメモリがまだちょっと残ってるので、視覚情報を過剰に摂取してしまうと、稲見さんの表情から「今ちょっと不快感感じたんじゃないか」みたいなバックトラック(後退)が起こっちゃって、今に集中できなくなるんですよ。
稲見 Clubhouse向きですね(笑)。
尾原 そうなんです。一方で音声情報に関してはものすごく知覚過敏なので、声だけで稲見先生がどこに興奮したかとか、どこでちょっとつまずいたかみたいなことを認知できるので、音だけ聞いてるんです。しかも僕、パラノイアなので、多分、稲見先生のいろんな話を実は受け取らずにスルーしちゃってる。
ていうふうに、もともと主観情報ってバイアスが掛かって、あるものは強く、あるものは弱く受け取っている。だから、目が悪ければ眼鏡で補正するように、認知バイアスも認知バイアスの眼鏡で補正する。そうことで双方が楽しくなるようにコミュニケーションを補完していくのは、今後、出てくる領域でしょう。
話を戻すと、本人がどう世界を受け取るかによって居心地の良さが決まるのであれば、相手を傷つけない程度に、自分の認知を補正する眼鏡を掛ける。眼鏡としてのビデオフィルターや音声フィルターを掛けるわけです。自分が楽しく、居心地よくいれらるための主観フィルター、間主観フィルターみたいなものは、当然あっていいなって思いますね。
バーチャルな互恵関係
稲見 以前、尾原さんのイベントにうかがったときに、ご紹介した釣りと凧の話って覚えてらっしゃいます?VR世界で、片方の人はずっと釣りをしている。その釣り糸の先が別の人の手につながっていて、その人は別のVR世界で凧揚げをやってるわけですね。それぞれの世界のタイミングをうまく合わせると、こっち側は「あ、魚がかかった」と思って……。
尾原 こっちは凧が揚がっていると思うんだ(笑)。
稲見 「おっ、風が吹いたから、ちょっと頑張って引かないと」というふうにやると……。
尾原 おもしれー。
稲見 お互い見てる世界違うじゃないですか。けれども、互恵関係があるという。私、これ、すごい哲学的に重要な話だなと。
尾原 ものすごい哲学的なエピソードですね。要は、凧を揚げてる人は「凧揚げるのおもしろーい」って思ってるけど、実は釣りの人にとっては魚の役割をしてもらってるってことですもんね。
稲見 はい。で、釣りの人は頑張って風の役をしてくれてる。それってコンピュータの間に情報空間が入るからこそで。そういう互恵関係って、物理世界ではなかなか(難しい)……。貿易とか分業とかでは、あったかもしれませんけれども。でも、それをもっと楽しくつなげることができるのが……。
尾原 そうですね。でも、ほとんどの少女漫画ってそうじゃないですか。男性における恋愛漫画もそうですけど。
大体、間主観フィルターによって、勝手に相手の美点を極大解釈して「相手は私にほれてるに違いない」っていうふうに楽しむ人もいれば、むしろ相手の一挙手一投足を拡大解釈して、トラブルを起こして。すれ違いがドラマを生むから、最後は何か「冬のソナタ」みたいな感動の話に向かうっていう。「恋愛って、釣りと凧揚げだよね」ってふうに言ってしまっても(笑)。
稲見 お互いがそう信じてはいるけれど、お互い求めてるものは違って、違うところをお互い意識はしてるんだけれども、結果として調停されてるみたいな。
尾原 はい。真実を教えてあげることが必ずしもその双方にとってのハッピーではなくて、お互いの幻想をある程度、守ってあげながら、お互いを傷つけないようにフィルターで調整し続けるのは、僕はとても幸せなことじゃないかなと思いますね。
(第2話に続く)
自在化身体セミナー スピーカー情報
ゲスト: 尾原和啓
IT批評家
ホスト: 稲見 昌彦
東京大学先端科学技術研究センター
身体情報学分野 教授