人格と社会の超高速実験場|稲見昌彦×尾原和啓対談シリーズ 第2話
(第1話はこちらからお読みください。)
上書きされる自分
稲見 実はウエアラブルコンピューターを提案した何人かのうちの1人にスティーブ・マンという人がいて、メディエーティッド・リアリティという言い方、日本語にすると(リアルとバーチャルを取り成す)調停現実という言い方をしていて。彼がそういう実装をしてるわけではなくて、恐らくそういうビジョンとして提案されてるだけとは思うんですけれども。
そういう機能は今あるメタバースの議論に入っていない。それこそ今後のメタバースもしくは情報世界と申しましょうか、デジタルシフトがきちんと起きていくときに、単なるデジタル化ではなくて、わざわざデジタルでやるべき価値につながる気がします。
尾原 うん。メディエーティッド、調停的なリアリティってすごく大事で、それがもう一度、自分に再帰されるわけじゃないですか。そうすると、その中で自分自身も調停されていくわけですよね。
よくある話で、バ美肉おじさんをしばらくやってみると、女性っていうのはこんなにルッキズム的なバイアスを受けたコミュニケーションをしているんだって自覚できて、無自覚にセクハラ発言をしてたおっさんが自然と抑えるようになりますとか。
ある種、メディエートされることによって再帰的に自分も上書きされていく。それが監視資本主義みたいな文脈だと、どうしてもビッグブラザーにコントロールされる自分って思えちゃうわけですけど、どうメディエートされるかに対するオーナーシップがちゃんとこちら側にあって選択できるのであれば、違う相手に対して優しくなれると思うんですよね。
僕、すごく大事にしてる方程式があって、価値は差異×理解だっていうアクティブラーニングの(原則があって)……。要はリンゴがいっぱい並んでるときに、全部が青色だったら価値の差はないじゃないですか。でも1個だけ赤かったら、赤いリンゴがおいしそうってなって、他のリンゴは10円でも赤いリンゴに100円払うわけですよね。
でも、赤いリンゴがもし玉虫色に変化し続けたりとか、ぐにょぐにょするとか理解の幅を超えた変化をすると、むしろ「気持ち悪い」に変わっちゃう。ぐにょぐにょしてるリンゴって0円どころか、「もうどっか外に捨ててよ」ってなってしまう。
だから、価値については違いをつくることに着目しがちなんですけど、実は理解の幅を広げた方が価値の認識につながる。メディエートされることによって、最初は相手の価値を誤解していたのが、相手が伝えたい違いがだんだん理解できるようになって、それを理解できると本当のハーモニーに変わっていくと思うんですね。
ポジティブに「空気を読む」
稲見 今のハーモニーっていうキーワードで思ったんですけど、学内で議論していて、ハーモニーといっても、シンフォニーじゃなくてポリフォニーが大切なんじゃないかと。
尾原 ああ、そうですね。そう思います。
稲見 尾原さんもよくジャズのセッション的な比喩をされますけれども。ポリフォニーよりさらにジャズの方が難しいかもしれませんが、お互い全然違うパートをやっていても全体として調和が取れたように聞こえるのがポリフォニーだと思うんです。先ほどの調停現実的な未来として、ポリフォニー的な社会はきっといいかもしれない。
とはいえ、ジャズにしても、ポリフォニーにしても、やっぱり空気を読めないと自分の役割が分かんないんじゃないかなと。今までと読むべき空気の種類が変わっただけで、別の空気を読まなくちゃいけないんじゃないかなという懸念、不安もあったりします。
そこは新しいデジタル世界でのポリフォニー、もしくはジャズのセッションのやり方のスキルなのか。あるいは物理世界で空気を読むよりやりやすくなるんですかね。それとも、そこを支援するツールもつくり得るんでしょうか。
尾原 そこは、まず「空気を読む」ことが、なぜ最近ネガティブなキーワードになってしまったかっていうことだと思っていて。もともと『菊と刀』とか、新渡戸稲造の『武士道』とか、あの辺の世界だと武士道的な空気を読む力って、むしろ美学的に美しいものとしても取り上げられてるわけですよね。
それが何で日本の文脈の中でネガティブなキーワードになっちゃったかっていうと、同調圧力の中でシンフォニーどころか「いや、ユニゾンしてなかったら、同じ音出してなかったら、おまえ駄目だから」っていうプレッシャーができてしまってることがネガティブ要素1。
要素2が、嫌だなって思ったときに別のコミュニティを選ぶコストが高過ぎて、そこに居続けなきゃいけないから同調圧力に隷属せざるを得ない。3番目は、もちろん同調する楽しみもあるんだけれど、ユニゾンの楽しみからハーモニーの楽しみへ、シンフォニーの楽しみからポリフォニーの楽しみへ、オーケストラ的な楽しみからジャズの楽しみへ、楽しみ方を変えるためのトレーニングをする場所とか、新参者が入ってきたときにトレーニングをする階段が提供されていない。この3つが構造的問題だと思っていて。
でも、ネットの良さってコミュニティのサイズを変えられるし、コミュニティの場所って、もういくつでもつくれるし。シンフォニーからポリフォニーにしていくとか、オーケストラ型からジャズ型に変えてくために、どういうインセンティブ体系をつくってあげるかっていう環境構築もできるから、ネガティブになっちゃってる「空気を読む」アーキテクチャを、ポジティブなアーキテクチャに変えられると思うんですよね。
実際、例えばFFオンラインだと、ひたすらポーションくれるおじさんとかいるわけじゃないですか。そういう新しい世界に入ったとき、インテーク(受け入れ)役になりそうな人に社会的報酬があればガイドさんになってくれて、(その人の導きで)空気を読んで、空気を楽しめるようになるっていう階段が設計できるんじゃないかなって、僕は割と楽観的に思ってるんですよね。
アイデンティティの地動説
稲見 今の話に関しては、前回お話しした東工大の伊藤亜紗先生が面白いことをおっしゃっていて。昔ながらの多様性って、個人イコール特定のタグ、看板が付いてるような状態で、その看板が例えば日本人であるとか、大学の教員であるとか、個人と強固に組み付いたまま、様々な人たちを集めましょうという言い方になっていた。でもそれは個人のアイデンティティを狭く捉えすぎな議論かもしれない。むしろその個人の中にこそ多様性がある。
この話は、まさにタグの時代ってことですよね。多様性のタグがたくさん付いていて、それぞれを生かしていく方が、本質的な多様性につながるんじゃないかとおっしゃっていて、確かにそのとおりだと。尾原さんの本にもある、平野啓一郎さんが言う分人的な話にもつながっている。あ、この図ですね。
尾原 最近は僕、分人どころか、アイデンティティの天動説から地動説(周りではなく自分が動いてアイデンティティが決まる)に変わってるんじゃないかって思っていて。
今までの自分って、自分が入ってるコミュニティに規定されていて、そう規定されてる自分から抜け出しにくかったんですよ。それって幸せでもあって、昔の「庄屋の息子はずっと庄屋の息子だよね」みたいな話とか、時代が変わって大学に入ると大学が自分を決めてくれたり、終身雇用制の時代は入った会社が自分を決めてくれていた。同調圧力とか空気を読むことによって(自分が)殺される一方、周りが自分を規定してくれてるから、自分で頑張って決めなくていい分、楽な時代でもあったわけですよね。
それに対して今は、そもそも生まれた村だったり、親の職業が自分を決めてくれなくなったし、会社は自分より寿命が短くなっちゃった。その分、自分をどこに投機していくのか、誰にぶつけるのかってことが大事になって、そのぶつかり合いの中で自分を決めていける。つまり、自分のアイデンティティのポートフォリオを組める時代になっていて。
例えば僕の場合は、日本だけじゃなくてシンガポールをベースにしながら、バリ島も行ってます、ウクライナにもカンファレンスで行きました、みたいな形で、別の人とぶつかればぶつかるほど違う自分が立ち上がってくるので、場所による自分のアイデンティティを設計できる。
今やVRだと、こういうむくつけきおっさんで入るときもあれば、美少女で入る自分っていうのもあって。身体的バイアスすら超えて自分を遠くに投げ掛けることによって、ぶつかり稽古の中で、自分の中にあるどの自分が立ち上がってくるかを楽しめる時代になったんですよね。これってすごい変化で。
稲見 それは大きいですね、確かに。こういうことって、メタバースとかアバターとかになって初めて視覚化できたと思うし、多分尾原さんは前からそういうイメージで行動されていたんですけど、尾原さんや平野さんの見方がきちんと実体化して、しかもそれによる変化を一人称で体感できるようになったのが今なのかなって。
尾原 そうです。だから、平野さん的なロマンチシズムでいうと、好きな相手の中に映ってる自分が自分を認めてくれるみたいなやり方もあれば、僕みたいに極端に「うーん。日本にいても、このまんまじゃ自分が非連続の変化できないから、えーい、バリ島に行っちゃえ」みたいに、自分を投機すること、投げ掛けることによって、新しい自分をつくり直そうっていうものもあれば。
昔っから大前研一さんが「自分を変えるのは大変だから、住む場所を変えるか、友達を変えるか、使ってる時間の配分を変えるか。この3つを変えれば、自分が変わるんだ」って話をしてたんですけど、そのどこに投機するかが、ものすごく簡単に設計できるようになってきてる。
もう1つ大事なことは、藤原(和博)さんが正解主義から修正主義への時代の移行っていう話をしていて。いまだに僕も地元に帰ると、やっぱり関西人の尾原っていう正解を当てに行っちゃうんですよね。ぼけなきゃいけない、突っ込まなきゃいけないみたいな。残念ながら、やっぱり灘中、灘高、京大だから、日本の権威社会に行くと「いや、尾原君、京大だからね。やっぱりそういう感じになるよね」みたいなこと言われるわけです。
そういう自分の囲いに正解を求めていかなきゃいけないのが「空気読む」ってやつで、それに対して今の時代って変化の時代だから、最初から正解なんて分かんない。取りあえずいろんなものに当ててみて、その中で修正、修正、修正を繰り返していく方が結果的に楽しく生きれる。
こういうことを藤原さんが「正解主義から修正主義へ」って言ってるんです。まさに自分のつくり方も、周りに合わせて空気を読む正解主義から、自分をいろいろ投機的なところに投げ掛けて、その中で自分を修正して再定義していく、正解主義から修正主義に変わってる気がするんですよね。
不要な摩擦から楽しい摩擦へ
稲見 正解主義と修正主義の図で面白かったのが、「成長社会から成熟社会へ」と言っているのに、実は右側(成熟社会、修正主義)の方が個人にとっての成長はありますよね。修正ってことはある意味、学習ですよね。だから左側は社会の成長だけであって、結局、個人は成長というより個別最適化ぐらいな感じだった。
尾原 そうですね。正確に言うと社会が成長してるから、社会の成長に合わせて、みんなで一緒に部品になった方が成長を享受できたって話だと思うんですよね。
稲見 同じ方向に成長って意味ですね。
尾原 そうです、そうです。
稲見 それでよく分かりました。やっぱり成長とか学習が、もう1つすごいキーワードだと思っていて。なぜかというと、自分たちの研究の話に戻すと、第3、第4の腕を動かせるようになったときとか、ロボットで6本目の指を作って、それを筋電で動かそうとすると、最初はなかなかうまくいかないんですけど、だいぶ練習すると、うーんっと動くようになってくる。
そのときって、私もめちゃくちゃうれしいですし、試した人は大抵、最初は構えて、その後、必ず喜ぶんですよね。けん玉にしても、やはりできるようになると誰もがすごく喜ぶ。みんな、できるようになりたいんだ、というところがあって。
逆に、DXにおけるサービスの在り方として、いかにフリクション(摩擦)をなくして透明化するかってことがキーワードになってると思うんですけど、一方で意図せぬフリクションをなくせたからこそ、楽しいフリクションを追求できるようになったんじゃないかという気もしているんです。そういう引っ掛かりとか、自分が成長したというポイントをどうデザインできるかも今後、大切かなと思ってまして。
尾原 それはむちゃくちゃ思ってて。Twitterの創業者のジャック・ドーシー、今はSquareっていう決済の会社をBlockって社名にして、Web3.0に全振りし始めてるんですけど、彼がもともとSquareって会社をつくった理由として「Simplify the world」って言い方をしてて。Squareって、スマホの上にちっちゃい四角いドングルをガチャッてはめると、クレジットカードをシュッてやるだけですぐ決済ができるっていうのを世界中に広めた会社で。
彼は、スターバックスで顔認証だけで決済できるとか、いろんな実験をしているんですね。何でかっていうと、本来、買い物って相手の意識と自分の意識を一瞬でつなぐ大事なものなのに、決済っていう仕方なくやるもので邪魔をされている。だから決済を見えなくしてしまえば、相手側のものを買いたいっていう素敵な気持ちの中で、相手が売ろうとしてるものと自分が買いたいものっていう意識がつながっていく。そこに立ち戻ることができるんだって、ジャック・ドーシーさんが言ってまして。
決済のフリクションがなくなれば、スターバックスのコーヒーを買うときに「僕、コーヒーよく分かんないんですけど、何かスタバ、好きなんですよね」って言ったら「じゃ、こっちの新作、試してみませんか」とか、「ちょっとこれ、ドロップするだけで味変わるんで」みたいに、理解を広げるための摩擦に集中できるようになるんですよね。
稲見 決済って、まさに意図せずつくられてしまったフリクションであって。そうじゃない、「じゃあトッピングをどうしよう」とか、新しい店員さんと会話してみるみたいな、チャレンジの方に集中できる。
尾原 はい。それを象徴してるのが、リッツ・カールトンの全従業員が持ってるクレドっていうカードで。僕もずっと持ち歩いてるんですけど。ホテルに泊まるだけだったら、ビジネスホテルなら5000円とかで泊まれるのに、リッツ・カールトンには3万円とか5万円とか払うじゃないですか。なぜかっていうと、クレドのカードにある、彼らが大事にしてるもののおかげなんですね。
まずフリクションレスに、摩擦がないぐらいに機能的にして、人を居心地よくさせた後に、相手がちょっと「え?」って思うミスティークを与える。ミスティークって妖精のいたずらの意味で、日本語でいうとポジティブサプライズに近い。そのポジティブサプライズをすると、お客さん、めっちゃはまって、「金、使うてまうやん」っていうエモーショナルエンゲージメントが起きるよって。
つまり、機能的な摩擦をなくすことによって、むしろエモーショナルなフリクションを起こす。相手のコンテクスト(文脈)を理解して、コンテクストを少し外してあげるミスティークを起こすと、人ってほれてまうやんっていうのを示している。
稲見 あれですね。デギュスタシオンとかお任せの寿司とかも多分そういうことですよね。やはり我々は一直線の未来じゃなくて、円錐形(に広がっていく)の未来が好きで。ただ、円錐形には許容可能な幅があって、それより外側だと、先ほどの変な形のリンゴになっちゃう。さっきの理解の範囲というか、そのちょっと外側にあるぐらいのところを、どううまくつくってあげるかで、この円錐の中なら、めちゃくちゃ滑らかに移動できるという。円錐じゃなくて、(クレドのカードにあるような)ダイヤモンドかもしれない。
尾原 3年ぐらい前に、東大の松尾豊先生と「AIの進化ってどうなるんですか」ってブレストしたときに、松尾さんが言ってたのは「今って、正解主義なAIの時代になっちゃってる」と。要はネコをネコって言う、犬を犬って言うだけだと。AIの次にいいところはパーソナライズで、100人いれば100人分の好みに合ったものを出せるよねって。
でも、それもまだ中間段階で、その次はサプライズウォークだって言い方をしてて。相手のコンテクストを理解したり、その文脈をつくった上で、相手が理解できるぎりぎりのところで、ちょっと外してあげると相手が喜ぶ。結局、相手の喜びって期待に対する結果の差分であって、期待をつくってあげないと喜びって起きないし、理解される範囲の中で喜びをつくってあげないと失望に変わる。これを彼はサプライズウォークって呼んで、「それをつくるのがAIの仕事になるんじゃね?」みたいに言ってました。
内発的動機を自己組織化する
稲見 (トイレ休憩から戻って)自分の身体はやはりまだフィジカルで、物理身体のままならなさと、どこまで付き合うべきなのか。でもそれ自体も、先ほどの(分人を表す)円じゃないですけど、きっとその円の1つが物理世界に過ぎないわけですよね。いろんなコミュニティがある中で、テレビでいうところのNHK総合みたいに、いざというときは一番大切かもしれないし、完全に切ることは難しいものなのかもしれない。
一方でまたピーター・スコット-モーガンさん、ピーター2.0と申しましょうか。ご自身はALSで…。
尾原 体自体はサイボーグで。
稲見 逆にALSになった故に身体のくびきから、より開放されたのかも、といった言い方もしていました。わざわざ食事を取らなくていいし、トイレの心配もしなくてよくなった、みたいに。ある意味、究極の姿なのかなとも。
尾原 そうですね。僕、「喉が渇いてない馬に水は飲ませることができない」って言葉が好きで。喉が渇くから「水、うめえ」になるし「空腹は最高の調味料」って言葉もある。逆におしっこ行きたくなったら、どんなにいい話を聞いてても「あーおしっこ!」って心が満たされて何も入ってこなくなるし。一方で賢者タイムじゃないですけど、あらゆるものを放出した後は、全ての情報について空腹が調味料になるみたいなこともある。
こうした身体的なネガティブから解き放たれることによる自由の獲得は、もちろんある。だけど自在化としては、むしろいい意味で渇かしてあげる、いい意味でおなかを減らしてあげることを身体と情報を使ってコントロールしていくことがすごく大事かなって個人的には思います。
稲見 逆に、私がよく使うのが「馬を水場に連れていくことができても、飲ませることはできない」って言葉なんです。大学の教育はそれに近いのかなと思ったりするんですけど、それって場を与えるってことじゃないですか。
でも場や機会を与えるとか、あるいは先ほどの環境や人、時間の使い方を変えることは、周りがつくったり本人がやったりできるんですが、その結果どう行動するかは全く別の話になりますよね。で、その部分(行為のモチベーション)で何ができるかを考えていて。
尾原さんも、先ほどのジャズ的な働き方に関連して、モチベーションが高い人を集めることが一番大切とお話しされていたと思うんですが、そこでのモチベーションって、コミュニティに対する相互作用としてのモチベーションなのかなという気もして。モチベーションが高いとは、コミュニティから見てモチベーションが高そうな人、ともいえるわけですよね。そこ(人とコミュニティ)がお互い自己組織化するような仕組みの議論は、恐らくまだなかったと思うんです。そこはどうすればつながり合うんですかね。
尾原 まずモチベーションって内発性と外発性の2種類があって、内から立ち上がってくるモチベーションに対して、外からやる気を出させるものとして経済的動機や懲罰的動機がある。一方で内発的動機にも、実は惰性、昨日やってるから今日もやる、っていうものもあります。
で、新しいことをやるときのモチベーションって基本的には2つっていわれてるんですよね。1つは目的が外から押しつけられず、自分で発見すること。もう1つは、その目的に向かう手段を外から押しつけられれずに自分で発見すること。目的と手段っていう2つを自分で発見すると、ほっといても自走していく。
稲見 なるほど、それを一言で言うとモチベーション高い、だと。今のはすごい腑に落ちました。発見という言い方をされましたけど、私の分野の場合だと、それをつくれるってことかもしれません。
課題自体を自分たちで発見することもできれば、自分たちで解くべき目標というか、登るべき山ですよね。石井裕先生がよく「造山力」と言ってるのはきっとそういうところなのかなと。さらに、エンジニアリングの本質は、やはりHow(手段)の部分をどうつくっていくかにある。
尾原 さっき言われた「内発性を自己組織化する」って、とても知的な言葉で(ネットのダイナミクスをうまく言語化しています)。ネットの良さって遠くにあるものを一瞬でつなげられることと、マッチングの性能がいいことじゃないですか。ジャズで言うと、ピアノ弾きたいって思ってる人とギター弾きたいって思ってる人を一瞬でつなぐことができる。
分かりやすい例で言うと、インスタグラムのハッシュタグの生成の仕方って、すごくジャズを起こしやすい設計になってます。今はちょっと違うUXになっちゃったんですけど、昔のインスタグラムでハッシュタグを一文字一文字入れてくと、「こういうハッシュタグがあります」ってリコメンデーションが、必ず2つ出たんですよ。
1つは世の中でむちゃくちゃシェアされてる、現状のトレンドのハッシュタグ。もう1つは、投稿数は少ないんだけど、今まさに立ち上がり始めてるハッシュタグ。この2つがリコメンドされたんですね、常に。
そうすると、時代の主流感に乗っかって大きい世界でたゆたいたいなって人は前者を選ぶし、まだ人数少ないんだけど、まさにエマージェントな、now and hereなものを選びたい人は後者を選べばいい。後者ってジャズっぽい感じになるんですよ。「あ、おまえも今、そのバイブス感じてんの?」みたいな。
民主主義の超高速ABテスト
稲見 漫画の『デモクラティア』って読まれたことありますか。1つのアバターといいますか、ヒューマノイドがいて、その動きをみんなで多数決で選ぶことによって、究極の民主的な行動をする人格をつくろう、みたいな思考実験的な著作で。
そのときの選択肢に、人数で上位の意見だけではなくて必ず2つ、1人の意見だけれども毛色の違ったものが入ってまして。最終的にそれらの中から投票するんですが、ちょっとそれを思い出しました。先ほどの円錐の話じゃないですけれども、驚きの要素をちょっと入れることが実は大切なのかもしれません。
尾原 そうです、そうです。『デモクラティア』とかだと、多数決をゲームのルールにしちゃってるわけですけど、例えば今、Web3.0とかDAO(Decentralized autonomous organizations、分散型自律組織)では、投票自体を1人1票にするんじゃなくて、複数票投票できるんだけど(その効力を)平方根にする「クアドラティックボーティング」をやろうよとか、意思決定のアルゴリズム自体を多様化できる。
1人が10個のDAOに所属することで、意思決定システム自体を10個のABテストで評価することもできるし、もっと言うと1個のDAOが「うーん、何か俺、賛同できないな」って状況になるとハードフォークして(新しいDAOをつくる)。例えばビットコインが、「いやいやいや、燃費悪過ぎて、送料かかるの嫌だから、もっと効率いいビットコインつくった方がいいんじゃないの」ってなったときに、ハードフォークで新しいビットコインをつくるみたいにして。
そういう意思決定のABテストが今すごく行われていて、ここから5年ぐらいで劇的に進化すると思ってます。
稲見 面白い視点ですね。物理世界だと様々なシステム上の制約によって、例えば投票も単なる1人1票の総和みたいなことしかできないし、基本的にみんな算術平均を取りたがってしまう。
私はいろんな審査員業務をやる中で、ある審査は、審査員間の評点の算術平均でなく、順位の調和平均を取るようにしてるんですね。ぱっと順位を付けていくんですが、調和平均だと上位の順位を付けた審査委員の意向を反映しやすくなる。
自分が本当に好きだって意思をより強調しやすくなって、みんなが平均的に「どうでもいいよね」っていう選択肢が通りにくくなる。シンプルな工夫なんですけど、こんなふうに集計方法をちょっと変えるだけで、全然違った意思決定ができるんだっていうがすごく面白かったですね。
投票に関する議論の中では、平均余命で重み付けすべきだみたいな話も出たりしてますけど、そういう可能性があるから、尾原さんはWeb3.0に興味を持たれるようになったんですか。
尾原 そうですね。Web3.0は、もう単純に民主主義と資本主義の超高速ABテストだと思って、生温かい目で見てますね。
社会やアイデンティティの実験場
稲見 すごい面白い。2007年か8年ぐらいのユーザー生成コンテンツの時代、よく「技術の民主化」がキーワードになって、それはそれで面白かったですしニコニコ学会とかもやって良かったんですが、そのときみんなが言ってたデモクラタイゼーション(民主化)って、「じゃ、その民主化って、1つの方法しかないの?」もしくは「民主化のゴールって、1人1票ってことなの?」っていうこととは全然違っていて。そこからもう一回、メスを入れていこうっていうのは非常に面白いですね。
尾原 そうなんです。人間って、結局、バイアスとインセンティブの奴隷だし、さらに言うとインセンティブと居心地の良さの中で集団を形成して、その中で新しいバイアスをつくっていくじゃないですか。そういう階層構造そのものが、社会実験を繰り返していく場所がWeb3.0だと思ってるので。
僕はWeb3.0をサービスドミナントロジック(SDL)っぽく考えてるんです。サービスドミナントロジックって、要は人がやりとりしているのはものの価値じゃなくって、ものを通じて送り手と受け手の間に立ち上がってくるサービスの中にバリューを感じてますよねっていうこと。でもこのバリューは、個人と個人の関係性や過去の習慣の中に折り畳まれて決まってくる。
なので、サービスドミナントロジックを考えるには、受け手と送り手が何を価値に思うのかを意思決定するメソ(中間)レベルって言い方をするんですけど…(それを考慮する必要がある)。例えば日本っていう社会(というマクロレベル)に対して、商社の習慣(というメソレベル)みたいな。稲見先生だと東大っぽさみたいな。そういったメソレベルでカルチャーの折り畳みが発生しちゃうんですね。
だからこのメソレベルと、(個人の関係のような?)ミクロレベルを往復しながら見ていかないと、人間が何に価値を感じるかを先制的に扱えない。ただ、今まで国とか会社ってレベルでは実験がしにくかったんですけど、Web3.0だと大量のABテストができる。そういう観点で見てる感じです。
稲見 大量のABテストがやりやすいのはメタバースも同じですよね。それをもう少し個人の間の関係性に注目したABテストってことですかね。
尾原 そうですね。特にWeb3.0の中のDAOに関しては、関係性の中でも、誰にどういうインセンティブやトークンを与えるのかを、ものすごく定義しやすい。そこが可視化されるから、構造分析がしやすいし。さっき言った「多数決で新しい物事を決める」みたいなガバナンスの設計も、プログラム的な意思決定の仕方もあれば、プログラムを超えたオフチェーンな(ブロックチェーンに載らない)意思決定の仕方もあって。その辺も自覚的に決められて、データも残っていくので、振り返りやりやすい。
さらに(DAOが)分裂(フォーク)する場合も、データコンポーザビリティっていって、ユーザーが使ってるデータをサービスAからBに移行することも割と簡単にできるようになってる。基本的にWeb3.0のDAOって、クリエイティブ・コモンズでつくられたプログラムを他で使ってよかったりもするので、この(ミクロ、メソ、マクロという)3つのレイヤーで進化、ABテストをやりまくりやすいっていうのが面白いところで。
一方でメタバースは、どっちかというと自分自身のアイデンティティをいろんな世界の中に投機できて、いろんな形で実験できるってことだと思います。
(第3話に続く)
自在化身体セミナー スピーカー情報
ゲスト: 尾原和啓
IT批評家
ホスト: 稲見 昌彦
東京大学先端科学技術研究センター
身体情報学分野 教授