【言志四録】読書感想スピンオフ 〜第3弾
みなさん、いつもお世話になっております!
私は普段、「本」「読書」に関することを主軸に記事を書かせていただいています。
自己紹介に書いたマイルールを守りながら書いています。
以前、佐藤一斎先生の『言志四録』を読み、その感想を書かせていただきました。
しか〜しっ、書きたいことがあり過ぎて、1回の記事で文字量が膨大になってしまいました汗
それでも、約250ページ中わずか30ページ相当について書いたに過ぎず・・・
よしっ、せっかくの機会だ!
この際、書きたいことを全部書いていこう!
ということで始めたスピンオフ企画の第3弾です!
※今回がラストです!
ヘッダーは、Yukitaka Sawamatsuさんの作品を使わせていただきました!
ありがとうございます!!
歳をとること
「いやぁ〜、歳をとったなぁ〜」
と思う瞬間、皆さんはあるだろうか?
・筋肉痛が2日後に来た。 〜先週の私
・朝早く起きるようになった。 〜昔は苦手だった私
・短気でなくなった? 〜昔は短気だった私。これは良いこと笑
・膝が痛い時がある。 〜運動しなくなった私
・カゼが治りにくくなった。 〜昨年、完治に2ヶ月以上要した私
などなど、挙げればキリがないし、人それぞれ色々あることだろうと思う笑
そんな中で、私にとって特にこれっ!と挙げるならば、
『1日が年々早くなる感覚』
が最もインパクトがある気がしている。
「年々早くなっていくよ〜」
なんて若い頃から色んな方に言われていたが、「確かにっ!」と認めざるを得ない。
何も待たない一年は、なんてあっという間に過ぎていくのだろう。
早いも遅いも心の在り様であって、年(時間)ではない。
確かに、子どもの頃は1時間60分だったのに、今は50分ということでは全くない笑
時間は、いつも、誰にでも平等である。
一斎先生の言うとおり、私の感じ方がそうなのだ。
この文は一部を抜粋しているのだが、この少し前に「勉強の夏日は、何ぞ其の短きや。」とある。
要するに、一生懸命に何かをやっていればあっという間ということもまた表現されている。
確かに、大人になってからは特にあっという間だ。
仕事をしているということが、非常に大きいのだろう。
子どもの頃、外で野球の練習をしている時は長く感じていた日没も、今ではこんなに早いものかと思っている私・・・
放課後から就寝するまでの時間も、今に比較すれば圧倒的に長く感じていた。
確かに仕事をしていれば、家での滞在時間も少なくなるし、集中しているからあっという間に帰宅時間になる。
でも、時間が短くなるのは果たしてそれだけだろうか?
休日でも同じ様な気がする。
それは、いったいなぜか?
私は、ちょっとドキドキ・ワクワクするような瞬間・出来事が、どんどん少なくなっているからではないだろうかと考えている。
要するに、あらゆることに対する経験値が貯まり、初めてのことであったとしても過去の経験の応用ですんなり乗り越えられたりする。
つまり、“新鮮さ" みたいなものが時間の長短を決めるのかもしれないと感じた。
往路は長く感じ、復路は短く感じるのも、まさに経験したかしていないかの差ではないかと思う。
復路であっても、
・道を少し変えたり、
・見るポイントを変えたり、
・そもそも目にするものの見方を変えてみたり、
することでただの復路にしないことが "豊かさ” であり、年齢を重ねるからこそ益々必要なことなんだろうと感じる。
月並みな言葉ではあるが、これからもっと1日一日を大切にしたいと思える文章であった。
青春とは
上の話の続きのような内容になるが、言志耋録第283条に次のようにある。
書き下し文で書くのが長文で大変なので、編訳者の現代語訳を少し簡素化して書いてみた。
さらに編訳者は、この文にサミュエル・ウルマンという方の『青春』という詩を添えている。
この詩もまた、なんとも素晴らしいものである。
この文と詩を交えて、編訳者は『青春』を次の通り表現している。
つまり青春とは、あるいっときの身体的・精神的成長期を迎える世代・年代に起こることではなく、60歳の人にも青春があると言う。
私が先述した ”新鮮さ” もそうかもしれないし、一斎先生のいう “老若の区別なき探究心” みたいなものもそうだろう。
こうしたものを持ち続けることがまだまだ可能である、青春は何度でもいつでも訪れるという前向きな気持ちを与えてくれる。
青春は、きっと時間を長く感じさせることだろう。
むすび
言志四録とは、文字通り四つの書の総称ということである。
執筆年が古い順に
・言志録
・言志後録
・言志晩録
・言志耋録
となっており、言志耋録が最も晩年に書かれたものとなっているとのこと。
だからだろうか。
今回取り上げた文は全て「耋録」からであるが、豊かな時間の過ごし方、豊かな生き方みたいなものを長年の経験から導き出した道理のようなものを感じている。
「耋」という感じを初めて使った笑
「老」の下に「至」と書く。
この字の意味を調べてみた。
単純に「としより」と出た。
確かに、「老に至る」のだからその通りである。
しかし、その老までに至る過程が大変重要だということなのだろう。
私は、どう生きるのか?
これからも、一生懸命に考え続けたい。
それがきっと、私にとっての青春であり、人生なのだ。
本日も、ご覧いただきありがとうございました!