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【ホモ・ルーデンス】 読書#151

みなさん、いつもお世話になっております!
本日は、私の投稿の軸とする一つ「本」「読書」に関して書かせていただきます。

自己紹介に書いたマイルールを守りながら、私の大好きな本について書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!

今回は、「遊び」についてです。
ヒトは「ホモ・サピエンス(賢い人種)」というより「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人種)」だ!というお話です。

ヘッダーは、にわゆうこさんの作品を使わせていただきました!
ありがとうございます!!


目次


基本情報

ホイジンガ (著)
中央公論社 出版
1973年8月10日 第1刷発行

全477ページ
読書所要期間6日

本書も、バリューブックスさんで購入しました!!

私が本書に出会うきっかけ

私は、noter(クリエイター)名のとおり「いなか」に住んでいる。
しかし、田舎にありながらも私が住む地域では、徐々に人々が集まりつつある。
つまり、移住でお越しになる方が増えてきているという、大変にありがたい状況にあるのだ。

こうして集まってくる人々は、実に面白い方ばかりだ!
なんせ、様々な課題をクリアして、自身で選択してこの地を選び抜いてくる人種ばかりだから!
そんな面白い(興味深い)人々の中で、ひときわ輝く一人の青年がいる。
その一人の青年が、私にものすごい熱量で語ってきた。
それが本書についてだった。
具体的に何を私に伝えたかったのかは覚えていないが、とにかく私も読んでみたくなった!

今月下旬に、この本をベースとした勉強会が開催される運びとなった。
もちろんその彼も参加する。
ということで、数ある積読の中から優先度を上げて本書を読んだものである。

私が思う、この本の本質

「遊び」の本質とは、いったい何なのか?
これを解き明かし、それを通じて私たちヒトは、「ホモ・ルーデンス」だと立証しようとするものであると捉えている。

言い換えれば、
「遊び」とは、何かの目的に行われるのか?
そうでなければ、
「遊び」の根底に、いったい何があるのか?

そうした視点から、私たちヒトの特性を理解しようと試みる。

私が感じたこと

競争と遊び

  • 面白さと遊び

  • 真面目と遊び

  • 自由と遊び

  • 文化と遊び

  • 神事祭事と遊び

などなど、これらと比較して
・「遊び」とはおよそどういったことが言えるのか
・あるいは言えないのか

という視点で論が進んでいく印象を私はもった。

その中でも、競争と遊びという関係性について、とても考えさせれる思いがした。
というのも、例えば私が小学生の頃からやってきた野球は、私にとっていつしか「楽しい・ワクワクするもの」から「良い成績を残すもの」へと変わっていった。
つまり、「遊び」から「競技」へと変わっていったという印象をもっている。

遊びの時代には、
・自由なメンバーで
・自由な時間に
・自由なルールと
・自由な場所で

行っていた。

それが、
・特定のメンバーと
・決められて時間に集合し
・世界で概ね統一されたルールの中で
・グラウンド、野球場という一様の規格内場所で

プレーする。
しかも、「審判」という第三者の評価に晒されながら・・・

前者の野球は、「自由」な野球。
自分たちが自分たちのルールの中で、ある種いつでもどこでもできた。
一方で、近隣の方々には迷惑をかけたり、ルールに対する見解の相違が予期せぬ恣意的な変更により、ともすれば限定された者のみに与えられる優越性みたいなものが生じ得る。

後者の野球は、ルールがあるからこそ公平にジャッジされ、その枠組みの中でいかに高いパフォーマンスを発揮するか、個性を発揮するかという楽しみが生じ得る。

自由だから楽しい、不自由だから楽しい。

この両面が見える時、これらの楽しいことは、
・いずれも「遊び」なのか?
・いずれも「遊び」ではないのか?
・はたまたどちらか一方のみが「遊び」なのか?

もっと言えば、
「ただ単に「競技、競争」を行っているだけで、「遊び」ではないのか?」
という問いの迷宮に私は足を踏み入れた。

この辺の堂々巡り感は、この本全体から終始感じるように私は捉えている。
それでも著者は、
・「遊び」でないもの
・一見「遊び」のように見えるもの
・「遊び」そのもの

を区別して捉えているようである。

真面目が大嫌い

私は、「真面目」と言われることが嫌い ”だった” 。
子どもの頃は、特に嫌な言葉だった。
しかし、今では嬉しい・ありがたい言葉に変わっている。

では、なぜ嫌いだったのか?

それはおそらく、「面白みのないもの」という意味合いで受け取っていたからだろうと考えている。
その受け取りを形成する象徴的な場面が、学校であったと思う。
厳密に言えば、学校で出会った周囲の人々(級友など)であったと私の場合は思っている。

・真面目に授業をうけ、
・それなりに点数を取り、
・校則に従い、
・大人たちが適切と考える服装や身なりで学校に通う。

それを見た、そう行っていない人々などから「真面目」と言われる。
私は同時に、大人たちに抗うことのできない「弱いヤツ」という意味合いすらも受け取っていた気がする。
つまるところ、相手側から見れば私は「遊び心のないヤツ」という見方だったのかもしれないとした時、
『遊び≠真面目』
が成立するように感じるが、果たしてそうなのだろうか。

「真面目にする遊び」というものは存在するし、ということは「遊び」も「真面目」もそれぞれの言葉を包含する関係性と言えるのではないだろうか。
本書を読んで、そう感じた。

「遊び」というものが、少しわかったようで、また少し離れていったようで・・・
何だかとても面白い♪
(この往還も「遊び」なのだろうか笑)

むすびに(まとめ)

現代スポーツを例にとれば、著者はこれを
・気楽でもなく
・真面目でもないもの

と言っている。
つまり、遊びでないと言っていると思われる。

ではやはり、遊びとはいったい何かという問いは、いよいよその答えを見出すための出口がやはり見つからない。
迷宮から抜け出すことができず、どんどん深みにハマっていく印象を拭うことができない汗

ただ、
・お金を払って公式試合に参加し、
・チャンピオン制を採り、
・特定の人しかその参加が許されないような制度

において、ましてや
・プロ選手が出てくる
ようでは、到底遊びではないと著者は言っているように感じる。

もう一つ重要なキーワードとして『闘技的原理』というものがあった。
自己を高めたいという人間生来の欲求を満たすものだと私は捉えているが、これが遊びの最重要要素であると言っているように感じている。

よって、私の中の ”現段階の” 結論として、「遊び」とは次のものであると考えている。
『気楽に、闘技的原理を追求できること。』
言い換えれば、
『参加条件が付されないオープン参加可能な追求活動』
ということにもなるだろうか。

ということで、一応の私なりの考え方を上記の通りまとめてみたが、おそらくまだまだツッコミどころ満載の結論となっていることだろう。
〈感じたこと〉からもご覧いただけるように、私は本書を読んでいる最中ずっと、
「確かにその通りだなぁ〜」
「でも、ここはちょっと違うのでは・・・」
「いや、でも確かにそういった側面はあるかぁ〜」
「いや、そこまで言い切れないでしょ!」
といったことを延々と繰り返しながら読み進め、ついには終わりを迎えた汗

本書解説には次のとおりあった。

人間の生活と文化は遊びと真面目のディアレクティークなのだという認識になるのではないか

本書P475(訳者 高橋英夫氏)

「ディアレクティーク」とはドイツ語で、日本語で言う「弁証法」である。
つまり、テーゼとアンチ・テーゼの往還により真理を追求していく手法だと認識しているが、まさに私自身が本書を通して自問自答の繰り返したことは、あながちあり得ないことではないのかもしれない。


本書について、誤解を恐れずちょ〜簡単に表現するならば、私は次のことが言えるのかなぁと思いました。

人間は本来「ホモ・ルーデンス」であるのに、現代社会においては失われつつある。
でも、こことこことそこに、その面影がまだ残っているよね。

というように、事例を挙げて紹介してくれていると感じます。

私たちは、根こそぎその本来の性質を忘れてしまったのか?
あるいは、かりそめの遊びに満足してしまっているのか?

さぁ、本書を通じてホイジンガと気軽に話し合お〜!!

本日も、ご覧いただきありがとうございました!!

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