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自動筆記のようなもの

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自動筆記のようなもの
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#自動筆記

矛盾だらけの理想像

雨が降り始めて、真っ先に傘をさす人は、絶対濡れたくない大切なものを身につけているんじゃないかと思う。 もしくは、大切な人に会う前とかね。だからといって、雨が降っていても、いつまでも傘をささない人がダメなんて思わない。子供の時は、雨が降っても濡れながら遊んでいたことを思い出して、あの時は大切なものなんてなかったし、だからこそ遊ぶことしか頭になかった。雨が降ったら、すぐ傘をさす人にも、ずっと傘をささない人にもなりたいな。靴下が濡れるのに備えて、もう一つ靴下を持っていく慎重な人に

グレーな傷跡

アメリカ人やフランス人に生まれたかったな、と思ったことはあるけれど、漫画やアニメは日本語だし、落語の面白さは日本語じゃないと分からないと思うし、日本人にしか分からないような小説があって、日本人だったからこそ感じることができる何かがある。 だから、日本人でよかったなと思うけれど、それはアメリカ人やフランス人にもあるんだろうし、だから、どこで生まれても、そこでしか味わえない感情があるんだろう。翻訳することで欠落してしまうものがあるけれど、それを知るために外国語を学んでいるんじゃ

名前なき病名の名付け親

泣くために、泣けると謳っている映画を観る人にはなりたくなくて、現実で泣く人間になりたいと思っていたけれど、それって結構難しいことなのかもしれない。 泣ける映画だからいい映画なのだとしたら、泣けない人生はダメな人生なのだろうか。決してそういうことではないから、全米が泣いたという言葉には騙されないようにしようと思う。そもそも、なんで悲しみという感情が涙に移りゆくんだろうか? 喜びは笑顔になり、怒りは暴力になってゆくんだろうか? 喜怒哀楽という感情は、こうやって肉体と結びついてい

瞬間的審判者

電車に揺られていると、酔ったサラリーマンが隣に座ってきて、大声を出したり、椅子を叩きつけたりしていたので、みんなその人から離れるけれど、ここで自分が席を離れたら、負けのような気がして、なんとなくそのまま座っていた。 最近読んだ小説に、狂人は、満員電車なのに隣の席が空いてしまう、みたいなことが書いてあって、この人が狂人かどうかは、自分が席を離れるかどうかにかかっているのだろうか。自分が、この人の人生だとか、存在意義だとかに審判を下すかのようで嫌だった。たとえ、自分が席を離れて

身の程あらず

純喫茶に行って、自分の身をその環境の馴染ませれば、なんだか良い人物になれるんじゃないか、と毎回期待している。 1杯1000円のコーヒーを飲みながら、自分を誤魔化すように過ごしている。でも、ファミレスに行ったら行ったで、自分より若い人が店内に溢れていて、そのエネルギーに圧倒されてしまう。身の程知らずという言葉があるが、純喫茶も、ファミレスも、自分の身に合っているとは思えない。自分の身の程ってなんだろうか、と真剣に考えても無駄で、確かなことは、信じた人さえたくさん集まってしまえ