瞬間的審判者
電車に揺られていると、酔ったサラリーマンが隣に座ってきて、大声を出したり、椅子を叩きつけたりしていたので、みんなその人から離れるけれど、ここで自分が席を離れたら、負けのような気がして、なんとなくそのまま座っていた。
最近読んだ小説に、狂人は、満員電車なのに隣の席が空いてしまう、みたいなことが書いてあって、この人が狂人かどうかは、自分が席を離れるかどうかにかかっているのだろうか。自分が、この人の人生だとか、存在意義だとかに審判を下すかのようで嫌だった。たとえ、自分が席を離れても、この人は狂人ではないような気がするし、むしろここまで公共の場で感情を出せるなんて羨ましいなと、さえ思う。街中で大声を出せるのは万能感を持っているからで、いつの間にか街中を静かに歩いている。他人に迷惑をかけるのはダメじゃないか、という発言は大人の都合でしかないんだろうね。マナーを守りましょう、と言っている子供はいないし、もし言っていたとしたら、単に言わされているだけだと願う。子供の時、大人の都合でこうなりました的な発言をテレビで聞いていて、なんかずるいと思った。それなら、子供の都合でこうなりました、もありだよねと思うけれど、それも結局大人が使う言葉でした。そもそも、言葉なんて大人が使うもので、子供が使うのは肉体なんじゃないかと思い、生まれたばかりの赤ちゃんを見つめてみる。