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名前なき病名の名付け親

泣くために、泣けると謳っている映画を観る人にはなりたくなくて、現実で泣く人間になりたいと思っていたけれど、それって結構難しいことなのかもしれない。

泣ける映画だからいい映画なのだとしたら、泣けない人生はダメな人生なのだろうか。決してそういうことではないから、全米が泣いたという言葉には騙されないようにしようと思う。そもそも、なんで悲しみという感情が涙に移りゆくんだろうか? 喜びは笑顔になり、怒りは暴力になってゆくんだろうか? 喜怒哀楽という感情は、こうやって肉体と結びついていますよ、と決めた人は、本当にそう確信していたんだろうか? 喜んで涙を流し、怒りで無気力にならなかったんだろうか? 涙には、悲し涙と嬉し涙があるけれど、それ以外の涙もあると思うし、感情と肉体を結びつけることで、欠落してゆく感情があって、それでも、曖昧な感情なんて切り捨ててしまいたい、自分の中に潜んでいる正体不明のものへの抵抗から、言葉が生まれてきたじゃないのか、と思ってしまう。切り捨てられた感情が、どうしても切り捨てられなくて、それが言語化もされていないから苦しんでしまうことがあって、涙を流すのは悲しいから、とさえ言語化されていない時代の先人も苦しんだと思う。そうやって、人間の弱さゆえに言葉が生まれてきたんだろうね。だから、なんでもかんでも病名してしまうのは、人間の優しさゆえになんだろうけど、その病名のせいで苦しんでしまう人もいるのだから、何しても意味ないんじゃないかというニヒリズムが生まれてくる。でも、それだって言語化されているんだから、苦しみの連鎖になるんだけれど、そういう苦しみの連鎖を断つために、小説家がいるんだろうか。


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