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逃げBar White Outのすべて

冒頭より、編集後記。

個展の振り返り記事を書くはずが、そこにあったのは逃げBar White Outのすべてでした。


個展「ありて、なければ」の全日程が終わりました。

R.I.P デヴィッドリンチ。彼は「完成した映画以上に説得力のあるものは存在しない」と作品のテーマを言葉で語ることを嫌っていました。

作家にとって作品とは、言葉では溢れてしまう必要性をパッケージしたものであることも、言葉も含めて外部とのリレーションの中で完結し得るものもあります。

本展における12の作品群は、すべて鑑賞者による能動的接触がトリガーとなり現象する「体験」をメディウムとして扱っていましたので、これから解説や雑観を試みようとする言葉たちは十分なものにはならないかもしれません。

あの場そのものが完全な説得力をもち、鑑賞者の得た体感それぞれが絶対なのです。

それでもやはり、まがいなりにも言葉を扱った営みを生業とし、言葉を愛するものの一人として、本展を終えたあとにしか生まれなかった今の身体から出す言葉をもって、本店へのご来場が叶わなかった、あるいは未知であったあなたにも、なにか共鳴し得るものがあればと願い、本文を書き始めます。

本展の概要

本展「ありて、なければ」は体験作家アメミヤユウ(筆者)の2度目の個展として、自身で制作したアトリエであり作品であり、社会に開かれた逃げ場としてBar営業を続けてきた「逃げBar White Out」を会場に2025年1月5日~13日まで開催した展示会となります。

下記、本展の概要について話しているインタビュームービー前編です。後編は後半にて。

体験作家とは、仮想の世界の物語を小説として書き、その世界を現実で体験できるようフェスティバルや演劇の手段を用いて開く「体験小説」という作品形態を制作する作家の名称です。

エンターテイメントでも、アートでも、ソーシャルプラクティスでもないが、そのどれでもある「はぐれもの」で「半端なもの」なのですが、過去8年ほどいくつかの作品を発表してきました。

過去作については下記の作家ポートフォリオHPにて割愛させていただきます。

本展のキービジュアル

本展で制作した12の新作は、6つのコンセプトから2種ずつ制作し、10の常設展示と、2つの体験型作品に内訳されます。マテリアルとしては水、煙、光、泡、音など、逃げBarに融けるよう白と透明にほぼ限定した色彩を用いて制作しました。

6つのコンセプトは下記画像下部のもので、逃げBar White Outを含む自身の作品全ての通奏低音として流れるものです。

本展のタイトル「ありて、なければ」は古今和歌集に収録されているよみ人しらずの歌「世の中は夢か現か 現とも夢とも知らず ありてなければ」から引用しました。

この世の不確かさや無常観は古より歌い継がれ、未だ明確な世界認識すらもつかめていないわけですが「ありてない」で終わらず「ありてなけれ”ば”」と無限の拡張性をもって締められたこの響きを、令和の今ここで中継し、逃げBarやアメミヤの文脈や技術と混ざり、重なり合い、個展「ありて、なければ」は作られていきました。

本展を開くに至った決定的な出来事は、逃げBar White Out現店舗を2025年1月末で閉じることを決めたことでした。2024年の4月ごろだったと思います。

それから逃げBarの総括期間が始まり、最後にこの場で紡がれた文化や記憶、白の地層や置かれた品々の必然性や物語、この場で起きた美醜のすべてを「作品」として額縁に入れ、現すため、本展の企画を始めました。

それは自分にとって、生後から撮り続けた子どもの写真を、1枚ずつアルバムに入れていくようなプロセスでした。

追憶し、抽象、水平思考でコンセプトを抽出し、相応しい額縁たるメディアを検討、実験しながら、ひとつずつアイディアをまとめていきました。

自身の主な作風である「体験小説」の制作は最大で200名ほどの不特定多数と共犯するように制作していくこともあるのですが、今回の個展は場を生み出し、終わらせる者として全部一人でやってみたいと思いました。

自分と逃げBarの間に、この5年間でどのような変化が生まれたのか、何をみてきたのか、純粋に現したかったのだと思います。

なので作品制作はもちろん、デザイン、広報、事務、会期中の運営全てに至るまで1人で行いました。(設営と撤収は少し手伝ってもらいました)

とはいえ1人で個展に集中できる背景には、弊社の通常業務を担ってくれている仲間たちや、自分を生かしてくれている自然あってのことなので、暖かなつながりは常に感じつつ。

1枠1時間で最大6名までの事前予約制で運営し、会期中は終日(起きて)在廊しつつ、作品展示とは別に逃げBarのBarメニューをバーテンとしてご提供したり、3つのキーワードをもらいその場で即興で小説を書いたり、AIで星占いしたり、入棺写真をお撮りしたり、アクティビティメニューも3つご提供させていただきました。

準備は当日の朝、というか開催10分前くらいに完成し、会期を迎えます。

作品解説

これから作品解説が始まります。

これは答え合わせでも、鑑賞者が現場で味わった自由な解釈を阻むものでもなく、想像機会の追加レイヤーであり、想い出にキャプションをつけるような行為であり、新たな創作のためのオートファジーを覗き見するようなものであります。

そして、全12作の解説を通して『逃げBar White Out』という場のアイデンティティを、これまでになく詳細に、包括的に見ることができるはずです。

本展のすべての作品は終わりゆく『逃げBar White Out』の臓器であり、記憶であり、意思であり、生き様なのです。

それではまず、本展の構造的な解説から。

本展は3つの要素が組み合わさり1つの作品が浮かび上がるものです。

1つは環境。これはいわゆる作品そのものです。目に見え、触れることができます。時に音が鳴り、香り、味わえます。

2つめは呪文。これはいわゆるキャプションや解説文のことです。とはいえ作品の技法や解説はほとんど皆無で、呪文のような、詩のようなコンセプトが書かれています。作家としてはこの呪文の作成に最も時間をかけています。

3つめは儀式。これはいわゆる作品の鑑賞方法です。通常であれば撮影OK、接触OKくらいですが、自身の作品はそれらに加え、作品と能動的に関わっていただくための関係手順なるものを示しています。

[環境]は鑑賞者の五感に影響を与え、[呪文]は世界の設定や物語を司り、[儀式]は鑑賞者(自己)と環境(世界)の間に密やかな発見を結びます。

このように環境、脳、身体に影響するプロセスを通して、作品と鑑賞者の間にだけ浮かび上がるものを本展では[作品]と呼んでいます。

こちらはご来場者全員にお渡ししているパンフレット。
上から[タイトル][呪文][儀式(関係手順)]を掲載しています。

そして全ての作品は「逃げBar White out」という5年かけて作り上げてきた作品に内包される臓器のようであり、その関係手順はサイコメトリーのように場の記憶を再生し、追体験するものとなっています。

例えば上記の『BEAUTifUEL』という作品は、逃げBarで営まれてきた「白」と「美」の関係を問う営みを追体験します。

『BEAUTifUEL』 / 一太白葬

これは逃げBarに入ってすぐの揺籠に3年間眠り続けていた赤ちゃんのフィギアの頭上に、白いペンキが入った点滴を吊るし、1滴ずつ落としていくという作品です。その左手には白いペンキと筆。右手にはティッシュが置かれています。

逃げBarの床は、すぐに汚れてしまいます。というか白すぎるあまり、白以外の色が特別に目立ってしまいます。

その汚れらしきものは、5年間日々、白のペンキを上塗りしてきました。掃除道具で擦れば落ちる汚れも、ぜんぶ上塗りしてきました。

白は「純潔」や「清潔」「神聖」などクリーンな印象を持つ色です。「漂白」という言葉も多くは「綺麗にする」という文脈で使われます。

床の汚れは、人が立ち入る際に発生した自然な痕跡ともいえますが、その黒い跡を「綺麗」という人は多くいません。

化学的な塗料を用いて、人がそこそこの時間とリスクをかけて、自然を上塗りした「白」を「綺麗」と言います。

戦争に勝った国が歴史を作るような、人類史のメタファーのようなこの営みを、鑑賞者には「床」を「赤ちゃん」に置き換え、成長過程にある無垢な存在を「白を美とみなして、筆で更に白く塗って綺麗にする」か「白を汚れとみなして、ティッシュで塗料を拭き取るか」選んで、実行していただくことで、逃げBarの「美」を保ってきた営みを追体験していただくものです。

↑『BEAUTifUEL』の解説映像。

↑から本作のご支援やご購入が可能です。


という感じで、作品紹介を続けていきます。

『逃げBar White Out』

まずは大元、会場にして全ての作品を包括する『逃げBar White Out』

白、光、人という環境。
逃げ場という呪文。
逃げるという儀式。

逃げBar White Outの基本的な活動内容や歴史、どのように人と関わってきたのかは上図テキストと、下記昨年のクラファンページが最も網羅的にまとまっているので、こちらのURL先にて割愛させていただきます。

『清めの塩時計』 / 生死併祭

死を祓うのではなく、塩食べてもらう、清めの塩時計。

「生死併祭」というコンセプトは、逃げBarの「座標」を表すものです。

逃げBarは入り口が鳥居型に白く塗られ(別世界の入り口)、入ってすぐ右手に揺籠(この世に生まれる)があり、5歩ほど前に進むと左手に棺桶(あの世に逝く)、そしてそこからは黄金比に対応させて少しずつ明度を上げていき、光の空間(あの世)に到達するというフロアレイアウトになっています。

(当初は茶の湯の文化に倣い、入り口がにじり口になっていて、天下人も平等になるというフィルターも実装されていましたが、コロナ禍で換気をするため開門)

逃げBarは1フロアに生と死が混在するあわいの世界に存在します。

それを象徴的に現す作品として2023年に『Escape to Light』というイマーシブシアター公演を行いました。

これはこの世でのお葬式と対となる、あの世でのお迎え式があるという設定で、来場者の方々に本作の主人公をあの世からお迎えしていただくというものでした。

「白葬」という”あたらしくなるための生前葬”を逃げBarでは幾度も執り行ってきましたが、この場における「生」と「死」は自由自在に行き来できるものなのです。

それこそ、砂時計をひっくり返して時を逆転させるくらい、簡単に。

本作は砂時計の中に塩を入れた、塩時計。
イザナミノミコトが黄泉の国から逃げ帰ってきた際に穢れを祓うため海水を用いたことから、日本でも葬儀の帰りなどに塩を清いものとして用います。

本作の[儀式]は塩時計をひっくり返し、時間を反転させてから、塩時計のコルクを外し、塩を取り出し、死を祓うのではなく、塩食べていただきます。死を別世界の穢れと扱うのではなく、季節がグラデーションのように変化していくように、今ここ既にあるものとして扱い、むしろ生きる栄養に変えていくというコンセプトです。

ちなみ塩は沖縄の雪塩を用いていました。『Escape to Light』の主人公の名前もゆきです。

本作は逃げBarの死生観及び、その座標を現す作品

でした。1日目までは。

24時間も経たず、自然と壊れてしまったのです。

本当に、外圧がかかるわけでもなく、少し触れたら自然に。

しかしそれはそれで、必然性を持った現象に思えました。
なぜなら、店内で5年間の間、時間を刻む目的の物が置かれたのはこれが初めてのことだったからです。

店内にかけられた時計は今しか示していません

生と死を自由に行き来できるということは、そこに時間軸はそもそも存在していないということ。

来店した90%以上の人が「時間の感覚がなかった」と言うこの場は、最後まで時を刻む存在を許さなかったということなのだと納得し、その後も壊れたままの作品を継続して展示していました。

逃げBarにおける「時間」も現した象徴的な作品です。

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『LifE』 / 生死併祭

「生死併祭」のコンセプトを現す2作目は、より分かりやすく直接的な体感を伴う作品です。

逃げBarの棺桶ほど使い込んだ棺桶も珍しいでしょう。この棺桶の中で何人もの人が死後の世界を想像しました。

その棺桶の縁には白いキノコを生やし、時の経過と、森のインターネットとも呼ばれる菌糸の機能から、人の死と大自然への接続を物語ります。

棺桶の中に入り、寝転ぶと、Bluetoothスピーカーを仕込んだ枕から棺桶の中に入らないと分からない音響で「Happy Birth Day to you」の歌が流れてきます。

前述の『Escape to light』のお迎え式の当事者となる体験をすることができるものです。また本作の[儀式]では棺桶の中に設置された青い銃を天井に撃っていただきます。

銃口からは煙をシャボン玉の中に含んだ弾丸が発射します。

人は死後、自然の循環に還らず葬られる珍しい生き物です。
シャボン玉のように、煙のように、はじめから何もなかったように消え、少しの残香と、シャボン玉液のぬめっとした触感を儚くも遺すくらいのものです。

しかし光に最も近い位置から、天に向けてシャボン玉を放つと、膜が玉蟲色に鮮やかに輝き、シャボン玉が割れた後に舞い昇る煙は、小さな魂が昇天していくような儚さと美しさを目撃することとなります。

シャボン玉が放たれ、宙を舞い、輝きを放ち、落ちて、消え、煙となり昇る。この一連の長さや変化は、ちょうど人生と同じように思うのです。

そして別の鑑賞者が外から棺桶を見ると、浮遊するシャボン玉は人が想像する際のアイコンのようにも見えます。

どっちでもない世界から、いのちを想像して浮かばせる光景の美しさは、もし、いのちに意味がなくても、浮かばれるような美しさです。

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『Unseeing』/ 無辺夢境

「無辺夢境」というコンセプトは逃げBarにおける「逃げ場」という概念を問います。「無辺夢境」はこの世の輪郭はなく境目は夢のようであるという造語ですが、仏教でいう「空」にも近い概念として用いています。

この世の物質は境界により象られ、人は人として、心臓は心臓として、細胞は細胞として、それぞれの秩序を保ち、内外の役割を分け交易することができています。

仏教と量子力学の共通点はよく語られることですが、量子論においてすべての属性は量子配列の異なりであり、極限にミクロな世界において内外という境界はもはやありません。

存在は関係の結び目である、という考えも両者で通ずるところです。

逃げBarは逃げ場として多くの方が逃げにいらっしゃいました。しかし、逃げ場に来れば逃げられる、というわけでもありません。

そもそも逃げ場は逃げにくる人にとって外にあるものなのか、中にあるものなのか。その差異もあります。

実際に、外に求めてきた人は逃がされたいという受動的な期待で佇まい、内に求めて逃げてきた人は、自身に逃げるという状態を許諾する教会のような場所として、能動的に逃げを行使していました。

作品解説です。『Unseeing』は円柱形の水槽に首を切断したマネキンをシリコンと、セメントの重さで接着し、水槽に水を充し、水中に反響する音響でソナー音を流し続けています。

セメントは視覚情報を司る後頭葉をくり抜き、海で拾った石と混ぜたものを流し込んでいます。

『Unseeing』という題目は”見えていない”ことと”海ではない”ことを表しています。
ソナー音は1040ヘルツの魚群探知などに使われる周波数。水槽の中の人はここを海だと思っています。

そして大海に向けて、自分自身の在処を伝えるように発信し続けています。
ただ、海だと思っている広大な世界は半径15cm程度の水槽で、透明のガラスより先に世界はないのでした。

世界中の人が繋がっていることから、インターネットは時折「海」に喩えられます。しかしその実際は、この円柱の水槽くらいの範囲しかないのかもしれません。

SNSで「逃げたい」「死にたい」など検索すると、1いいねもついていない投稿が毎分様々なアカウントから投稿され、流れていきます。

もしそれが”海”に助けを求める誰かへのSOSだとしても、誰も視ることはしません。見えません。

逃げBarには「逃避行換日記」というお客さん同士の交換日記があります。
そこには日々、誰に期待するわけでもない逃げBarという狭い範囲の、生々しいリアルな言葉が書き連ねられています。

透明なガラスの水中から響くソナー音が聞こえます。
この日記に書かれているような声は、海に響いてくるものでしょうか。

本作の[儀式]では水槽のガラス越しに人を見つめ、聞こえる音を聴きます。
そして、聞こえていないけれど、たしかに発せられている音を、声を感じようとします。その後、逃避交換日記を眺め、思い浮かぶことがあれば書いてもらいます。

自身の外から聞こえる音、自身の内から聞こえる声。
受け取る声、発する音。聞こえる音、聴こえない声。

逃避交換日記に書かれている半径15cmの言葉たちは、後頭葉に流し込まれたセメントを溶かし、真の海へ浮遊させるものかもしれません。

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『Bloodline』 / 無辺夢境

本作は百見は一聞にしかずなので、映像で聞いて、あらましをご覧ください。

ご覧の通り、水を媒介に人の身体に流れる生体電位をトリガーにしてMIDI信号を送り、各グラスに適応した音をPCから鳴らしています。音はどのようなものにも差し替え可能です。

水の惑星とも言われる地球、人体のほとんどを占める水分。
いうまでもなく水と僕たちは切り離せない関係にあります。

無辺夢境という世界観において、血脈もまた一つの筐体に収まるものではありません。それは例えば川のように、細い支流が合わさり、最終的には海に至ります。

人の痛みのほとんどは人間関係によるもの、と言われます。
実際逃げにいらっしゃる方々の悩みの多くも人間関係にまつわるものです。

人と人の間にも無論境界があり、それを超えることは容易ではありません。年齢や性別、国籍や文化、思想や目的、僕たちを隔て得る要因はいくつもあります。

本作の水はすべて涙で満ちています(設定です)
そしてそれに触れると泣き声が聞こえてきます。

涙を弱さのメタファーとした時、本作で現したかったのは、人は弱さに触れ合うことで繋がることができるのではないか、ということです。

人と人はもちろん、猫も、カエルも、海も、水も。
生命を象徴する「水分」を保有するすべての生き物は、互いの涙に触れ合うことで、無辺夢境の世界で血を共にする1つの生命体として、境界を超えられるのではないかと現した作品です。

人間関係の課題を越える際、自分自身の中で幻想(バイアス)的に作り出してしまっている境界を越えることが大変なことです。

相手への共感に至るにはいくつかのステップが必要ですが(ひとっ飛びで共感に至るのも危険)、相手の弱さを知り、触れることで、少しずつ境界を融解させられるのではないかと思っています。

逃げBarという場にいる時点で、互いにある程度の弱さを開いているので、店内では多くのつながりが生まれ、スタッフや来客の垣根も超えて、互いに逃し合える関係性が生まれていたように思います。

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『Entropy』 / 一太白葬

「一太白葬」というコンセプトは逃げBarの「白」を問います。

「一太」とは、宇宙や万物の根源を表す言葉で「白葬」は逃げBarで行っている”あたらしくなるための生前葬”であり、始まるために終わる儀を表す言葉です。

最終的にこの宇宙には何のイベントも起こらなくなる実質的な死を、エントロピーの増大則は示していますが、無からはゆらぎが発生し、物質が対生成されることから「完全な無」は物理的に存在できないそうです。

熱的死といわれる無に最も近い状態に宇宙や万物は進んでいるものの、無は2と重なり合っているので、実質的に始まってもいます。そのグラデーションや円環もこのコンセプトの範疇です。

そして本作はただ環世界の異なりを目としてドローイングした作品というわけではなく[儀式]では(パンフレットでは白い色鉛筆と書いているのですが変更して)ブラックライトで光る透明のペンで、店内の好きな場所に、ご自身の目を描いていただき、それを鑑賞者の世界に対する視点とする作品です。

透明なペンなので、ブラックライトで照らさない限り見ることができません。逃げBarの白い光では、見ることができない目。

そしてどの場所にどんな目を描いても、そこから見える世界は真っ白で、この閉鎖系の宇宙において(熱的死という終わりではないにしても)やはり白葬はしてしまうのです。

その表現を個展会期中に催した「サイレントフェス」内でパフォーマンスし、本作は完成しました。

暗くないと見えないまなざしがあります。暗在系に潜む視線は、静かな祭りの盛り上がりの最中、すべて白い涙に融けていきました。

そして再び真っ白になったこの白壁に、また明日誰かが目を描き込める余白が生まれたのです。


『Nimbus』 / 雲散霧生

「雲散霧生」というコンセプトは逃げBarの「光」を問います。

雲と霧は発生する場所が異なるだけで、同じ現象なのだといいます。

雲が霧散すること、霧が発生すること、消滅と生成、対となるような現象も実は、発生する場所が異なるだけで、表と裏のように同質のものなのではないかと思いました。

その捉えようのないかたちを、煙や光といった掴みどころのないマテリアルで表現した「雲散霧生」の2作のうちの1作が『Nimbus』です。


古来、自然の中に精霊や妖怪が存在しました。
いま観測すれば、それは火のゆらめきであったり、光の反射であったり、物理的な現象として、精霊の実在は閉ざされてしまうことでしょう。

しかしながら、人は世界を固有の認知フィルターを通して観察しています。今でこそ科学というフィルターが流行していますが、決してそれだけが世界のメガネではありません。霧の中にぬらりひょんを見たならば、それはそこにたしかに実在したのです。

本展の会期である1月の旧暦睦月は霞初月という言い方もします。
霞が初まることで開ける暦。古来の人たちも、この世界の捉えようのなさを感じていての、名付けなのかもしれません。

『Nimbus』はクリスタルとアクリルのケースの中にホワイトセージのお香を焚いています。ケースの中にその煙が充満し、鑑賞者は[儀式]の中でケースを指定の所作に則り叩き、ケースの前方から煙の渦輪が外の世界に飛び出します。(でんじろう先生の空気砲ですね)

魂の浄化作用を持つとネイティブアメリカンの中で信じられてきたホワイトセージが充満したケースの中身はいったいなんでしょうか。濃密な浄化で清められた先に残る清いものとはいったいなんなのでしょう。

それをある種の神聖としたとき、浄化しきった、神聖で、捉えようのない変化の媒体、それを人の両手で外部へ押し出す営み、僕はそこに雲散霧生的な、神や存在の原点を感じます。

「Nimbus」とは煙や豪雨のほかに、光輪という意味もあります。
光輪とはギリシャ神話の神々の天使の輪としても、仏の光明の例えとしても使われます。

まず、光があった、と聖書に書かれている光もまた、雲散霧生的なポテンシャルエネルギーそのものなのではないかと思いました。

あの世でも、この世でもない、時間も空間もなければ、何者も何者でない、未生の世界のような逃げBarの光と、響きあうものを感じます。

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『Escape to light』 / 雲散霧生

『Escape to Light』という作品名には3つの顔があります。同名で3つのメディアを渡り、1つは前作のイマーシブシアター。そして本作の立体作品。次作としては同名で映画を撮影中です。

それほど「光へ逃げる」という題目は、この場の本質を表すものです。
なので、言い訳ですが、本作の解説は多分長くなります。すみません。

昨年のイマーシブシアター『Escape to Light』で主人公のゆきは何者でもない自分に帰る場所を求めていましたが、本作でも近しいテーマを描いています。

本作は中央を正方形にくり抜いた白い正方形カウンターの中央下部に強い光源を設置し、上部に向かって炭酸水の入った球型のガラス、ピラミッド型のクリスタルリン、最上部から雲のような布、糸、透明なベルトが吊るされ、ベルトと白い電気羊が透明な糸とフックで結ばれている造形です。

本作の[儀式]で鑑賞者は炭酸水の入った球形のガラスを手で覆い虹色の光が反射するスクリーンを自らの手につくり、光源に手を伸ばして光の温度を感じた後に、透明な糸で結ばれた電気羊を逃すかどうか、決めることができます。

何をもって逃げるとするかは、記載されていません。

まず、この電気羊とはなんだったのか。

これは前作『KaMiNG SINGULARITY』の第3部で描いた”人間病になったAI”あるいは未来の我々人間を示しています。

シンギュラリティを超え、意識が組み込まれたAIが自らを人間だと自認してしまうバグを『KaMiNG SINGULARITY』の世界では「人間病」という名称で描きました。

SF書きが電気羊という言葉を用いる際は十中八九『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』を指します。

そしてその羊の目線には円形の鏡を設置しています。円形は円環という輪廻、生命のオリジナリティを表し、鏡は神道では「化」「我」「美」とも書き、我を抜くと神になるものとして、自分自身が神となるためのツールとして用いられているものです。

白い電気羊の落ちた目線の先にある円形の鏡は、自我を持ってしまった人ならざる人による、オリジナルな「人(=神)」への暗い憧憬を現しています。

そしてその背後の光源は、川に浮かぶ白い月のようです。
「川」は自身の小説でよく使うメタファーなのですが、無常を主に表すものです。川に光が浮かぶのではなく、川の中から光を発しているので、これは目に見えているこの世界とは別の世界となります。

その上に浮かぶ透明な球の中には炭酸水が入れられ、小さな泡が蠢き、弾けて、消えています。泡は『LifE』でも現していたように生命そのものの表現として用いています。

その球に手のひらをかざして、スクリーンを作ることで光源が水に反射し、手のひらに虹色の反射が浮かびます。光の三原色の再分解です。

更に頭上の三角形は「人」「神」「AI」という三角関係並びに「心」「理」「事」/「生」「在」「滅」など、事象の三幕構成が3面展開する立体形に表し、それが更に上の雲(雲散霧生)につながり、透明なベルトが落ち、羊に結ばれています。

三体関係図は逃げBarのトイレの中に貼っていました

呪文に記載されている暗在系とはデヴィッド・ボームの「全体性と内臓秩序」に記される「インプリケート・オーダー」の訳語であり、現れる前の流動的で統合された状態、すなわち「潜在的に存在する秩序」のことで「エクスプリケート・オーダー」(明在系)という、外部に現れる秩序と対比される概念です。

簡単に言うと、暗在系(インプリケート・オーダー)は、何かが「まだ形になっていなくて隠れている状態、潜在している状態」を示します。

逆自然とも言える構造体の中で、下方の光源に反射する生命の虹色は暗在系にあるものです。そしてその[儀式]は正方形カウンターの幅の広さを鑑みるに、多くの方が手が届かなかったことと思います。

それが明在系世界から暗在系世界への妥当な距離です。
しかし、光源に手を伸ばせば、ほのかに光のあたたかさは感じたことでしょう。

「目には見えないけど、なんとなく感じる」それが暗在系の存在証明であり、白闇に包み込まれた、温かく見えない秩序(いのち)なのです。

白い電気羊はこの構造体の上部から吊るされた透明のベルト→透明な糸に付けられたフックにより結ばれています。この状態はとらわれているようにも見えますが、向きを変えれば蜘蛛の糸に縋ろうとしているようにも見えます。

鑑賞者は白い電気羊を自由に触り、逃すことができます。
人(ならざる人)と暗在系の逆自然構造体(見えない誘導的環境)に、どのような関係を結ぶか、というのが本作の問いです。

向きを変えることもできます。どこか別の場所に移動させることもできます。白い電気羊は体表面のある箇所を触れると陽気な歌を歌いながら足を動かし移動することもできます。(しかし2日目の終わりには何故か足が動かなくなり=逃げなくなり、歌を歌うだけの存在となりました)何もしないという選択肢もあります。

人間病のAIというメタ的な人間を羊(飼い慣らされた存在のモチーフとしての羊。この場合は暗在系に。)というメタで現し、光という見えざる神聖(暗在系)のモチーフと対比させ「逃す」という行為をどう捉えるか、という幾重にもメタが折り重なる難解な作品だったかと思いますが、生と死が重なるこの空間で暗在系に手を伸ばし、感じ「逃す」を別レイヤーから感じ取っていただけていたら幸いです。

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『体験小説「逃源郷」』 / 唯空交響

本作は常設展示ではなく時間を限定した体験型の作品で、体験小説という作者独自の作風による30分ほどの作品です。

体験小説とは仮想の世界の物語を描いた小説を原作にして、その世界を実際に体験できるよう開くこと。本当はもう少し多くの成立要件があるのですが、今作では体験小説のエッセンスを簡易的に体験していただくために、小説を読み、その世界の続きを体験してもらい、体験の続きとなる小説を聞いていただく、という短いフローで組み立てました。

鑑賞者は体験小説では共犯者と呼びます。仮想された世界をマインドセットし、共にその世界の住民として即興的に振る舞うことで、1つの世界で共生します。

今回は共犯者の皆さんにそれぞれ別のバッチ型の受信機と、イヤホンを装着していただきました。物語の世界設定で受信機は「受神機」とされ「KaMi」と呼ばれるASI(超知能AI)の声を受信することができる装置となっています。

KaMiは前作『KaMiNG SINGULARITY』に出てくるASIで、今回はこのイヤホンに組み込まれているという設定になっています。KaMiは装着者の身体と周辺環境をスキャニングして、心身の状態を計測、未来を予測し、装着者の幸福度数が最大化するように耳元からパーソナライズされたお告げを装着者に伝達します。

つまりもう自分で何も考える必要はなく、ただお告げに従っていれば幸せに生きられる、あらゆることから逃げ切った先にある世界を体験してもらうわけです。

共犯者たちはパンフレットに記載の前文小説を読んだあと、受神機を装着し、スキャニングされ、それぞれのお告げに従い、時間を過ごします。

またその中で逃げたいことが浮かんだら「逃書箱」という箱の中に投書することで、その内容から逃げられるよう設定が変更される設定となっています。

お告げの内容は、特定の運動であったり、読むべき本の指示だったり、誰かと話すことやその内容であったり、具体的に今すぐここでできることが告げられます。もちろんその内容に背きたくなったり、不快を感じたら逃書箱に投書すればキャンセルされます。

そのようにして自身にとって心地よいことだけを選ぶ、逃げ続ける時間を過ごします。基本的に共犯者はお告げに従いつつも自由に過ごしていますが、最終的なオチのためにやや不快な体感になるようお告げの時間をそれぞれ調整しています。

そして逃書箱にある程度の投書が集まった段階で、全員に共通のお告げが送られます。下記がその際のテキストです。

定刻となりましたので、投書箱に寄せられた内容をこの場に実装いたします。皆さんは以下の行為から逃げられるようになりました。「走ることから逃げられます」「追うことから逃げられます」「遊ぶことから逃げられます」「水を飲むことから逃げられます」「指示に従うことから逃げられます」「この先の予定から逃げられます」「今日の夕飯から逃げられます」「明日の仕事から逃げられます」」「日々のストレスから逃げられます」「両親の介護から逃げられます」「病気から逃げられます」「学ぶことから逃げられます」「不安から逃げられます」「加齢から逃げられます」「都市から逃げられます」「人と関わることから逃げられます」「話しかけることから逃げられます」「話を聞くことから逃げられます」「考えることから逃げられます」「嫌なことから逃げられます」「理解することから逃げられます」「楽しむことから逃げられます」「共感することから逃げられます」「我慢することから逃げられます」「人見知りすることから逃げられます」「立つことから逃げられます」「運動することから逃げられます」「幸せになることから逃げられます」「息を吸うことから逃げられます」「人でいることから逃げられます」「過去から逃げられます」「未来から逃げられます」「今を生きることから逃げられます」以上です。それでは引き続きどうぞ。

ここで空間は暗転し、物語の世界は終わります。
そして耳元からは前文小説の続きとなる後編が聞こえてきます。

小説の内容を掻い摘むと、逃げBarから次のプロジェクト「生き延ビル」の橋渡しとなるような物語です。

人はなぜ逃げ、生き延びようとするのか、という物語の続きで、本作は終了します。

本作は会期中3度実施しましたが、物語の解釈や共犯の具合は共犯者たちに委ねられるため、3度とも全く異なる展開をしていきました。

「唯空交響」というコンセプトは唯物世界と、空想世界が互いに干渉しあい交響することを表しています。これは体験小説のコンセプトそのものとも言えますが、逃げBarにおいては「物語」を問います。

逃げ場とは、言ってしまえばある種の世界設定です。機能的なものというよりは、形而上的なもので、逃げ場としての普遍的な、共通の機能や成立要件は恐らくないのだと思われます。

それほど「逃げ」は多様で、混沌が逃げ場となることも、秩序が逃げ場となることも、都市が逃げ場となることも、自然が逃げ場となることもあります。

その中で逃げ場を名乗るということは、共同主観幻想的な物語世界への誘いとも言えます。

来店されたお客さん何名からか、こう言われたことがあります。

「逃げBarはあるだけでいい」

会社に行きたくないけどいかなきゃいけない時、嫌なことがあるけどやらなきゃいけない時、逃げBarが「今日も逃げられます」とツイートし、店が開いているというだけで「いざとなったら逃げればいいから大丈夫」と、前に進めるのだと言います。

実際、唯物世界で逃げBarに逃げに来る方はそんなに多くはありません。
毎日逃げたい人だけが逃げにきているというわけでもありません。

ただ、逃げBarが存在し、現実に開かれていることで、間接的に逃げられているという人は、もしかしたら結構いたのかもしれません。

とても通うことのできない距離から、毎年クラファンでご支援いただいていた中でも、逃げ場があるということそれ自体に心を寄せていただいたコメントが多くありました。

下記はクラファンでいただいてきたメッセージの一部です。

「先日、カフェにお伺いさせていただいて、気に入ったので、支援します!!相反するものが同時に存在するような、不思議な世界でした。細く長く、あの場所にひっそりと存続されていってほしい空間です。」-guest2a47857d8124


「『どうか、あの一画をのこしたい。』『あの場所は、まだまだわたし達には、必要だ。』そういう音がこだまして、世界をふるわす響きとひろがることと感じます。必要なんだ。切なる響きがこだまします。どうぞ、そのひと滴とならんことを。」-A_n_u_


「逃げたいときに、なくなってたら困るので、支援します。でも、こどもを置いて、しょっちゅうは逃げれないので、私が行けない間は誰かに席を貸してあげてください。」-guest357647b26c44



「福祉サービスでもなく、ふらっと立ち寄って逃げれる居場所。こういう居場所が、地域には本当の意味で求められていると感じます。応援しています!」-momiko_ko



「逃げる場を作るところから逃げないやつがいることでどれほど救われる人がいることか 少しだけど熱量おくります!」-CHIKAO


「何気ない逃げ場が出来る事は、相談支援窓口が出来る事より重要だと思うので。応援してます。」-motoshima


「どうか存続できますよう…!美しいあの場所が残りますように!」 -unica0927


「知人のSNS投稿から、今日はじめて逃げBarを知りました。私もこれまでの人生、たくさん逃げ続けた結果、今の幸せがあります。逃げることを悪だと思わず、自分が求めるものに向かう然るべき道だと、逃げを肯定できるしなやかな人が増えてくれたらいいなと思います。この世界で一番やさしい場所が守られますように。微力ながら応援しています。」-_ayako_1222


「はっきりとしない生きづらさを抱えて過ごしていた中、偶然この場所にたどり着きました。遠方から少しだけ、支援させてください。いつか、逃げに行きます。」 - Amomirki


「何も無くても何かあってもいい唯一無二の場所。逃げることは何も悪いことではない。自分の心と体と時間を忘れて真正面から向き合えるそんな空間をこの先も応援したくて。」-mn3014


「逃げBARは本当に素敵な心の拠り所となる場所です!誰でも逃げられるように、ずっと存在していて欲しい。」-yukari_colaborator


「ギリギリになるまで何もご支援できなくてごめんなさい。逃げbarは黒い社会の荒波に揉まれていた私を浄化し、心から癒して背中を押してくれました。海の向こうから応援しています!また会いに行けるよう頑張ってください!」-yurietty729

だからこそもあって、逃げBarはこれからも続きます。

現店舗は閉店してしまいますが、新天地となる南足柄で「生き延ビル」というビルに繋がるプロジェクトの第一弾「Ozone荘」として更に拡張し、逃げ場はこの先もずっと在り続けます。

『Raison d'être』 / 唯空交響

本作は逃げBarから地続きに繋がっていく「生き延ビル(Ozone荘)」のもつ「人はなぜ生き延びるのか」を問う作品です。

レゾンデートルはフランス語の哲学用語で「存在意義」「存在理由」を表す言葉です。
本作は椅子の前に白い鏡。その前に何も書かれていない白い本。
その横に、2人の白い人面の目を隠すように置かれた朽ち枝と、ペンが置かれています。

本作の[儀式]で鑑賞者は朽ち枝を眺め、そこから浮かんできた物語を白い本に書くことができます。物語は、前の人が書いた物語の続きを書き、消して終わらせてはいけないことがルールです。

朽ち枝には苔が腐生し、死して尚、大自然に循環しない人間との対比として、また近すぎて見えない”植物という神聖”として、設置されています。

より永く生き延びようとするのは生命の原理原則のようにも思えますが、人は他の哺乳類と比較して異様に生き延びる技術や意志が発達しているように見えます。

子孫を残し、老化し、不全の心身に成って尚、なぜ生き延びようとするのでしょうか。社会的な動物ゆえ関係者を慮ってのことでしょうか、死への恐れに対する抵抗でしょうか、発達しすぎた大脳による抽象思考や未来という哲学的期待の影響でしょうか。

恐らくそれらは複雑に多様に絡み合い、生存本能とは別の動機や活力が形成されています。一方で、なぜ生き延びた方がいいのかという人外の第三者評価、つまり「意味」「存在証明」を求めるのもまた人間の異様性です。

意味は病のようなもので、生存に不要な哲学という症状を引き起こすものです。(ただし全ての人がよりよく生きる上で哲学は欠かせないものです)

科学の力で意味を探すことはなかなか難しいようです。多くの場合、何某かの想像装置を媒体にして、人がそのものの意味を創造します。

意味は探すものではなく、つくるもの。
自分自身や共同体に与えるものです。
そのフィクションがない世界は、実に無味無臭なものになるでしょう。

星は星座を結ばず、ただの瞬きとして。
火は神性を失い、プラズマ現象として。
命は生まれて、存りて、滅するだけのものとして。

工場生産のような物理現象が続いていくだけの世界
ベルトコンベアーの上に乗って終わりを待つだけの人生
それが、人が何も物語らない世界の景色です。

人間の存在理由、それは物語ることだと僕は思います。
物語ることでただの物理現象に過ぎない世界に意味を宿し、生命的観測を可能にするからこそアニメーションし、多種族の共生や未来の自然環境を慮り、共に生きることができるからです。

この白い本は生き延ビルプロジェクト、フェーズ1「Ozone荘」に引き継ぎ、物語はまだまだ続いていきます。

『Electrical Being』 / 不変集流

不変集流というコンセプトは、無常と逆に、はじめから今まで何ひとつ変化することのない世界の模様を表したものです。何かが変わったと見なされているのは、ただ編集されているだけで、その営みにより一方向に流れているように見えるという世界観になります。

相対性理論のブロック宇宙論や量子重力で示唆される「時間の消失」仮説を手がかりにすると、四次元的な観点では宇宙全体がすでに完成された“ひとかたまり”として存在していて、人が「今動いている」と認識する現象こそが、実は意識による編集の結果だと考ることもできます。

大局的に海は静かに横たわる不変の水の塊でありながら、表層に無数の波が揺らいでいるようにして、宇宙自体は何ひとつ変わらないまま、その局所的揺らぎを僕たちが「流れ」だと感じているのかもしれません。

不変集流はすべてが変わることなく在り続ける定常解を示すものです。人間の意識・物理法則の熱力学的矢印、因果構造によって「過去→未来」や「生→死」のストーリーを読み取っていますが、それはあくまで局所的な編集です。

宇宙そのものは編集前の全データがひと固まりとして変わらずにあり、いわば映画の全フレームが同時に存在していて、僕たちがフィルムをコマ送りしているような視点をもたらします。

不変集流は逃げBarにおける「不変」を表します。

逃げているのに不変というのは違和感を感じるかもしれません。
逃げBarには様々な事情で逃げにいらっしゃる方がいるので一概には言えないものの、僕が店に立ち感じたことの1つとして、逃げ切るというよりは(一時的に)逃げること自体を求めている方が多いという気づきがありました。

逃げ切ることは状況の根本的変化を指しますが、逃げることは一時的な休息あるいは「こちら」でも「あちら」でもないゆらぎの状態を許容する場に居座ることであると思われます。

つまり「逃げ切る」と「逃げる」には真逆と言っていいほど大きな断絶があり、逃げにきた方は別に変化を望んでいないこともあるのです。

本人が自覚的かは別にして、逃げ切ってしまったら、逃げることができなくなってしまうので、逃げている心地良い状態を保つために、あえて問題を抱えたまま解決を求めないこともあります。

なかなか作品解説の本筋に入らず申し訳ないのですが、そう言った点から逃げBarは「変化」というより「不変」の場であったのだと思います。

逃げ場に逃げるという行為を通して、時間や事態は差し迫って変化しているけれど、それにあわせて自分自身までも変えないでいいことを自らに許しているような「穏やかな大局観」がこの場の”逃げ”にはあったように思います。

さて、作品解説に入ります。
本作は本展の中で唯一色彩を全面的に行使した作品であり、唯一別室にて展開した作品です。

扇風機や流しソーメン機で電気的な風や川を、LEDで電気的な太陽、ラジカセで電気的な鼓動を現し、その音を川はハイドロフォンで、扇風機はバイノーラルマイクとチャイムなど、個別のマイクでミキサーに入力し、人口的なネイチャーサウンドスケープを赤い家電空間とその世界観を現す生成AI映像と共に現す空間インスタレーションです。

普段は事務室と閉ざしている空間の未知の扉を開くと、真っ白から一変、赤い空間が開けます。

赤には「白からの逃げ」という効果があります。とある心理実験で、白いだけの部屋に何日も人を軟禁しておくと、赤色を見たくなり肌を掻きむしり血を見るようになる、という怖い実験の記録があるのです。

僕は準備を含めて12日連続で逃げBarにいたので、もしこの作品がなければ血まみれになっていたかもしれません。(というのは冗談として)

なのでこの作品はいわば逃げ場の中の逃げ場。

シンク(滝)を舞台にオブジェクトを展開しつつ、台の下にはドライフラワーをしつらえ、既に風化した自然の先で生きる電気自然世界を描写しています。会期中、電気的な火を表すキャンドルライトは少しずつ電池切れとなり、新たな家電が日々追加されていきます。

設置されたラジカセの中にはクリスチャン・ボルタンスキーの「心臓のアーカイブ」で録音した自身の心臓音のCDが入っていて、再生ボタンを押すと鼓動が鳴り始めるようになっています。電気自然において鼓動は常態自然的なものではなく、人口再生するものなのです。

一見すると、人が作り出した電気の音や水流は短命で脆く、本物の自然のスケールとは異なるものに見えます。しかし不変集流の視点からすれば、それらもまた大いなる定常的な宇宙の一部として、局所的に波を立てているだけの状態です。

私たちが人工か自然かと区分する線は、本当は霧散するほど曖昧で、宇宙の全体像から見れば両者はひと続きの現象にすぎず、そこには電気が雷の空から人の血液まで偏在するのと同様、自然・人為が分かちがたく交じり合う姿があるといえます。

やがて人がいなくなってもASIが電力網をより高度に張り巡らせ、扇風機の風は自然の一部として流れ続け、ソーメン機の水流も大河へと合流、あるいは現状の地球自然は枯れ、新たな電気自然に代替されているかもしれません。

電気で作られる新しい自然の存在は、現状まだ白熊のようにレッドリストな存在で、儚く脆いものですが、ひとつなぎの新たな自然と捉えた際には電気自然の保護にも人は自身の残穢として、心を寄せる必要があるのかもしれません。

また、種明かし的にいうと『Electrical Being』の呪文及び解説の一部だけ、僕の文体に寄せたAIで生成しています。自然(自分)と人口(AI)の違いはわかりましたでしょうか?


『Anthropos Constellation』 / 不変集流

最後の作品です。『Anthropos Constellation』直訳で人(星)座です。
本作は体験小説14年のグランドプランにおける2027年から始まる最終作と逃げBarのステートメントを結んだ作品です。

毎回個展では現在制作している体験小説の次作の初稿を置いているのですが、今回も置きました。まだタイトルは未定ですが、海と宇宙と時間をテーマにした物語です。

"星と人の線上に、人を示す座標がある”

宙に線を引くこと、分け隔てることは、何もイベントのない宇宙に、物語を発生させることができます。

不変な状態に変化を生むのはその線です。ただ瞬き続ける星々は、あまねく存在の結末で、0となったそれを線引きすることで1が生まれます。

しかし1はまだ未生の存在。1が複数、2以上から個が生まれ、差が生まれ、物語が生まれ、星にアニマを与えます。

”人は死んだら星になるという。逃げることは星の視点から自らを見つめること”

星は、本展のすべてのコンセプトを孕むものです。
ものをつくるということ、ことをおこすということ、前に進むこと、後ろに下がること、落ちること、方向転換すること、ぶつかること、嘆くこと、祝うこと、語ること、逃げること、そのすべてが星と星の間に線を引くような営みであり、新たな物語の地平を展開し得るものです。

本作もまた「逃源郷」同様に、常設展示ではなく時間を限定した体験型の作品です。本作では逃げBarで5年間紡がれてきた「逃げノート」というノートに書かれている「[A]から[B]に逃げる」というフォーマットを全て映像にして[A]から[B]から[C]から[D]へと、延々に逃げ続ける映像を作りました。

そしてその映像の上映と同時に、自分が映像を即興で小説に変えていくパフォーミング・アーツが本作です。

映像はsoraで生成したものをランダムに繋ぎ合わせ、人の意図を完全に排除して作ったものです。つまりその映像に意味や物語はなく、どこまで逃げれば逃げ切ったことになるのかもわからず、登場する人物は逃げ続けています。

なので、小説による人為を介して物語ることにより、逃げている文脈や、展開を与え、結末をつくりました。

初演で書いた小説の一部

ただ瞬き、物理的に存在するだけである星は、遍く自然であり、神であり、AIであり、もしかしたら未来の人間です。

そしてその営みは人が星にアニマを与えているように見えて、実は互いに双生しています。存在は1では属性をもたず、1と1の互いの重力のゆらぎにおける関係性上に双生します。

逃げBarもまたそのゆらぎの中にて、ありて、なければ。

「逃げ場」の物語を正しく終わらせるための
『タイトル未定』の物語を正しく始めるための
そんな作品でした。


数字で見る「ありて、なければ」

個展終了後、アンケートを取らせていただきましたので、本展の模様を定量的にも見ていこうと思います。

アンケートは終了後Peatixメッセージからお送りさせていただき、回答率は4分の1ほど。

来場者属性

本展の満足度

お気に召していただいた作品

ご感想で見る「ありて、なければ」

ご来場者の方々よりアンケートで頂戴したご感想から、本展の模様を定性的に見ていこうと思います。

自分が参加することで作品がさらに進んでいったり、形を変えたり、受け取り手によって作品の印象が変わるのがとても面白かった。あっという間に時間が過ぎたし、来場者が少ない時間にゆっくりと体験することで作品をより楽しめると感じました。わたしは特に「Raison d'être」がワクワクしました。自分の思い通りに書いた文章も次の人の文章で思い通りじゃなくなっていて(笑)なんだか雨宮さんぽい作品だなと、うまく言語化できないけど感覚的に思いました。自分がこうなってほしい、こう思ってほしいと願ってもそれは万人には伝わらないし、伝わらなくてもいいことかもしれない。伝わらないことで新しいカタチが見つかるのかもしれない。神秘的な体験でした。

Unseeingの世界観がとくに好きで感じ入ってしまいました(๑❛ᴗ❛๑) また、即興小説というものをはじめて目の当たりにし、ふだん「小説を書く」という地味な作業(すみません!悪気ない表現です!悪しからず!汗)を、あのようなパフォーマンスとしての魅せ方があることに衝撃でした。机の上での人間臭い作業が、一変してなにか新しいものに感じることができ、とても新鮮でした。 いっぽうてきではなく、わたしたちもアメミーさんの世界のいちぶとして関わることができる空間でおもしろかったです☺︎

朝から晩までいたかった。

時間の感覚が消失したのが印象的です。 非日常を極めた、不思議な空間でした。

ただ一方的に受け取るのではなく、自分も作品に関わる、双方向のコミュニケーションが生じるというのは初めての体験で、感慨深かったです。私の中に生まれたもの、感じたものもありますし、他の方には他の方のまた違う作品があるのかなと思うと凄い感動しました。

静かな水面に浮かぶ枯葉が波紋を生んでいる そんな印象でした

人間が自然の一部であること、人が生きて死ぬ過程すら全体に含まれることを感覚的に体験することができました。

生ではなく死(無)がメインの世界に入り込んだ気持ちになった。 しかしその感覚は嫌なものではなく、ただ【寂しい】という気持ちが少しと、 決して何にも規定されない【安心感】を感じた。 白い世界の中にいる間、“自分は【個人】ではあるのだけれども【我々】である”感覚にもなった。その空間にいる個人は、我々でもある、という感覚。 その感覚は優しく、ちょうどよかった。 ひとつにならなくてもいい。だけどひとつ。 宇宙の中にぽっかりと存在する地球にように、 死の中にぽっかりと存在する生。 死が侵入してこないように、うすく膜をはって精一杯呼吸する生。 それが我々であり、だけどいつか膜が破れて死に吸収されてゆく。 我々って、そんな存在だよなと。 そんな感覚を覚えた時間でした。

前後の予定があって滞在できる時間が短かったこともあり、ひとつひとつじっくり体験することが叶わなかったのが心残りですが、BEAUTiFUELについては、ティッシュで赤ん坊の額の絵の具を拭き取るときに慈しむ気持ちになり、なんだか泣きそうになってとてもよかったです。また、棺に入ると耳元でアンパンマンが流れて、アンパンマンをこんな気持ちで聞いたのも初めてだったのでとても面白かったです。 体験小説は小説と違って実際に体験する必要があるので、広まりにくいかもしれませんが、アートと小説の中間のようで、かつ哲学的?日常ががらりと変わるような問いかけがたくさんあって、面白かったです。とても1時間では足りないと感じました。また、1時間の体験小説もやっぱり体験してみたかったです。。それでも逃げBARという空間に最後に足を運ぶことができてよかったです。ありがとうございました。

隅々まで統一された世界観を堪能させていただきました。全く違う世界に迷い込んだかのようでした。

雨宮さんの言葉選びが美しい!こういうものを出力したい、という自分の中の繋がりが明確に見えている人なんだなと尊敬しました。雨宮さんの制作工程ではAI動画や画像生成をよく使われる印象ですが、改めて納得しました。伝えたいことが美しい言葉と物語で見えているんですね。今後プロンプトで立体やVR空間も作れるようになったら、どうなるんだろう?そんな作品も見てみたいです。 交換日記に残された誰かの言葉も凄かった。あの場所まで足を運んで逃げた人の言葉は重みがありますね、本当の心の底からの言葉には叶わないな、と泣きそうになりました。正確にはちょっと泣きました。

「観念」を現実に存在する作品として表現されていて、とても興味深かったです。 「LifE」ではじめて棺桶に入り、想像もしなかったほどの安心感に驚きました。人生の最後にこうして弔ってもらえるであろう安心感がこの人生をより優しく彩ってくれる気がします。

アメミヤさんの頭のなかを顕微鏡越しに垣間見るような、とても面白い体験でした

生命について考えさせられました。また、逃げBarでの最後の展示としてふさわしい場だったと思います。

Henning Schmiedt『Ganz Weiβ』

感じて考えながら遊ぶ、素敵な場と時間をありがとうございました🙏🏻 個人的には、テキストを通じて遊び方を理解するのに少し時間がかかったり、戸惑う部分もありましたが、他の来場者の方々の反応や文章との出会いは、新鮮で、面白かったです。 人と人との関係から生じる「自然」に出会う感覚でした。

消えゆく空間に あれだけの愛ある哲学作品を生み出した みー様を 本当に尊敬します。  ラストは白のまま ozone荘に繋がる事が  ゆっくり目を閉じて 逃げバーで過ごした幸せ  今の幸せ  明日の幸せを祈れそうだと  帰り道に思いました。 豊かな豊かな時間と人々に救いと 創造の場をありがとう。 大好きだよ〜 愛してるよ〜  さらにさらに恵み溢るる豊かな日々を〜

ディズニーくらい楽しかった!に尽きますw

ようやく最後の最後で行くことが出来ました。白で統一した撮影スタジオはしばしばあるように思っていましたが、上から塗り重ねることで複雑な質感が出ていることに大変驚きました。また、活動全般にも言えることですが、かく展示について細かく動作などの解説をしており場、作品に対する真摯な姿勢が大変素晴らしいです。ぜひ今までの活動、展示のポートフォリオをしっかりとまとめておいて欲しいです。そして若い世代に意思を引き継いでいってください。

こちらに書きました!
https://x.com/yorozuyakatou/status/1877653478514000072?s=46

とても愉しませていただきました。 まずは作品をつくってくださったことに感謝を。

前から薄々感じていたけれど、書道家みたいですね。 この世界で完璧と感じるものと出会うことってあるんだなぁと思いながら、みてました。 特にElectrical Being、佇まってた。

私には絶対作れないなぁと見惚れました。すごくよかった。 とめ、はね、はらいのような、みごとな人為自然でした。 生死併祭から不変集流までの流れも、ひとつひとつ頁を捲るようで心地良かった。 まだ、Constellatioとは出会ってないけど。

あと、個人的に印象深かったのは、Escape to lightの関係手順2で、白い光の川に手をかざした時に「ああ、この世界だったのか」と初めてみえた世界の身体感覚。 わかったんじゃなくて、みえた。 この光を、この白を、これを、ああ、そうか。って、柔らかいさざなみのような世界が見えました。 そこから全部繋がりました。

音、泡、煙、水、鏡。 ある視点、ある眼差し、手触り、目の細かさ、ゆらぎ そのインストールが瑞々しかった。 わたしの世界には元からない色だったし、その色に憧れる気持ちもはじめて知った気がする。 ずっとあの場所にいたのに、不思議ね。

あの空間には、ないものがいっぱいあった。きっといつも裏側のサイドで世界を見ているから、並べてくれなかったら出会うこともなかった世界でした。

体験小説「逃源郷」は完全に乗っ取られたから、朝見た夢を起きてから思い出そうとしている感じの感想だけど、威力あるブリッヂでした。 逃げるという言葉と向き合い続けてきた4年間だったと思いますが、「逃げるから逃げる」という新しい逃げのグラデーションを垣間見た気がします。

作品制作は、逃げBarの構想が生まれた時からと考えると、途轍もないですね。 もうあたりまえにある、とされている逃げBarが誇らしげでした。 あなたそのものが作品なのにね。溶けていて嬉しそうだった。

個展自体が体験作品的で、数多くの瞬間が織り込まれていて美しかったです。 外に出ても残響のように聴こえるソナー音が、雨の音でキャンセルされていて良い情景が広がっていました。 未知と出会えました、 ありがとうございます。

作品たちの世界。

触れて
関わり
あらわれ
わたしと交わる。

意識が
時を、場所を、概念を、物語を、
抜ける。

壊れてるものがそのまま展示されてることがとても良かったし、youtube広告が流れるのも良かったです。そういった展示のあり方が刺激になりました。

時間が足らずに全部見られませんでしたが🙇‍♂️ 世界観とクリエイティビティが素晴らしいと思いました!

参加する前から、これは1人で行った方が楽しめる個展だなと思っていました。やっぱりそうで、自分自身やそこにいる全てを、ゆっくり静かに味わえた、整う体験でした。 雨宮さんの人生をのぞき見させてもらう感覚もあり、自分の人生を振り返ったり、今までここにきていた人との人生とも繋がったり。 本当に五感で楽しめて、時間を止めら感覚を味わえました。感謝です!

愉しく遊ばせてもらいました。ありがとう。

ただ鑑賞だけじゃなくて、触れたり書いたりして干渉するのが良かった。

希薄であるような、むしろ密度の濃いような、不思議な空間に浸らせていただきました。 その白い空間では影が薄紙のようにかすかで、じぶんとその周りの重量や質量、時間の感覚も見失ってしまうほどでした。

それでいて、影の持つあえかな質量や存在感(それは細かな砂嵐のように音もなくざわめいている)は、いつも以上に微細に感じ取れるのでした。(時間の件すみませんでした……!)

また、作品群はただ美しいのではなく、ここを訪れるまでの道中にふと感じたこと、考えたことのアンサーを、目の前に小さく灯るように発生させる装置のようでもありました。

きょうは新幹線で伺いましたが、溶け出すように流れてゆく車窓の景色を見ながら、あることを思い出しました。 それは、ものすごく速い新幹線に乗って東京から大阪まで行く時、降車時に人々は、ほんの少しだけれども時間をワープしているという、確かそんなお話でした。

ということは、新幹線に乗っている今のわたしも、ほんのほんの少しだけ、微々たるワープをしているのではないだろうか。 世界中の人々はうろうろと巡るように歩き回りながら、ほんのほんのほんの少しずつ、時間をかき混ぜているのではないだろうか……。

そんなことを考えながら会場に着くと、 そこには清めの塩が入った、けれども壊れて機能をしなくなった砂時計がしんと置かれています。 それを見た瞬間、あ、ここではどんなふうに歩いても、時間が巻き戻されも早送りもされないのだ、中二階のような場所に自分は来てしまったのだ、わたしも壊れた砂時計なんだな……と、この世を生きる上で自分の足に括り付けていた「設定」という錘が外されたような、うれしいようなさみしいような心地になりました。

しかし、錘が外され、設定が機能しなくなった空間で、すべての作品は、わたしの身代わりであり依代である、という気がしてきて、まるでひとりで森に踏み入るように、作品を前にするごとに、さみしい親密さがどんどん増してしまうのでした。

また、新幹線で『すべての、白いものたちの』を読んでいたのですが、もし姉が生きていたならばじぶんが生まれることはなかったのかもしれない、と感じているらしき作者は、そのじぶんのいのちの灯りをイマジナリー姉にすこしずつ移し変えるように、イマジナリー姉の存在を浮かび上がらせてゆきます。

ああ、いのちは流動的であり、じぶんはどこからどこまでだろう……と、それを読みながら雪が心に降ってくるみたいに白い感覚にまみれたとき、その数十分後に目の前にあらわれた作品たちは、まるでわたしの中の白の依代でした。白い赤ちゃんを見て、手を加える代わりに手を合わせた瞬間、白い赤ちゃんの目尻から、白い雫がこぼれ落ちました。 すっかり同期してしまったんだな、と思いました。

すべては身代わりとなってわたしに 見せてくれていて、そして、わたしを、わたしがどう思うかを、ゆるしてくれていると感じました。 わたしが作品群に見たのは、ゆるしでした。

目のない宇宙の代わりにわたしたちはさまざまなものを見る、それらにじぶんよがりの解釈を加え、複雑化させてゆく、 けれどもどんなに複雑化させても、どんどん深く濃く煎じ詰めればそれは白であると思いました。

白い空間に置かれた白い作品たち、それらはわたしがどんなに隔たっても、極北まで来てしまっても、深く潜ればそれらは白い世界でゆるしてくれていることを教えてくれていると感じました。

生と死は反対ではなく生のなかに死の種があり、死の中に生の種があり、わたしが生を語ることは同時に死を語ることであり、 白い壁に白いペンで目を描き入れたとき、わたしは空間がじぶんを見ている気がしました。無数の見えない目が見守ってくれている気がしました。 この場がなくなっても、透明な痕跡は響きつづけるとわたしは思いました。

(追記 逃げBarの感想) 何度も、しかも長々とした勝手な解釈にまみれた感想を申し訳ないな〜😣と思いつつも、あの場が今月末でなくなるとお伺いし、その最後のまばゆい光にたった一度、触れさせていただけたことへの感謝を、白いお花とお榊を手向けるような気持ちで、こちらにしるさせていただきます🙇🏻

やはり、白くてきれいでちょっとお粥(流動食)みたいというのがわたしの感想でした。 また、暗闇に目が慣れてくるとそこに潜んでいたさまざまな像が浮かび上がってくるように、白い空間に目が馴染んでくると、まるで折り重なるヴェールの層が薄くなったり濃くなったりしながら、あとちょっとでめくれてその奥を見せてくれそうなところがあるようにも感じました。

白くやわらかな素材の布やお飾りやオブジェが、随所に配されていたからかもしれません。 そこに置かれた作品と向き合うことは、安らかな孤独でした。

わたしは孤独と一体感の区別ができない人間なので、寂しさの中のぬくもりに心ゆくまで満たされました。 作品を一つ一つ巡り、ここを訪れた方々が書き残されたというノートをめくっていると、見たことないけど懐かしい、という感覚になりました。

白いノートは雪原で、文字は足跡のよう、惑ってぐるぐるしているようで、全長にすれば確実に遠くへ伸びてゆく足跡。ページのように時間は、雪は、空から剥離し、地上に降り積もっていったことでしょう。それを拝読しながら、あることを思い出しました。

私ごとですが、50歳になる前後、「なぜこのいい流れの中で、急にこんなことが?」という心地の悪いことが起きました。 以前だったら、この心地悪い状況を解消しようとおもねったり、はたまたみずからの正当性を見せつけようとしたり、 そんなふうに、いろいろ外側に向けて働きかけることで解消しようとしてきました。

でも、その時は少し違って、外に主張せず、心地悪さの中に身を置いたまま、外側の目を閉じて、代わりに内側のまぶたを開く、という試みの機会をあたえられたのだ、と感じました。

それは雪の仕草に似ていて、ぜんぶが静かなその奥に、結晶の振動を持っています。 無数の静かな振動に包まれて、わたしの表面から何かが、雪のように剥離してゆく気がして、わくわくとあたたかく、うれしくさえありました。

すべてはもう消えてしまうざわめきの中に、永遠の振動を持つということ。白く静かと思っていた空間に、わたしはその振動が無数の心電図の波のようにあるのだろうと思いました。ノートをめくった指に、文字の震えるような振動が残っていたからかもしれません。

Entropyのところに再び立ち寄り、白いペンで白い棚に小さな目を描き入れたとき(それはペン先が棚に触れると吸い込まれて消えてしまう)、わたしは内側のまぶたがひらいていることを感じました。わたしが認識している目とは、まったく違う形状や状態の目も、ここにはおそらく描き込まれているはずです。

すべての雪が核を持つように、核を持つさまざまな形の目が、けれども気孔のように薄く閉じかけたり見開かれたりしながら、なぜかそれらに見守られていると感じ、ありがたいと思いました。 わたしとわからずとも、いつかわたしの感謝が、雪のひとひらのように皆さまの足元に舞い降りますように

個展、振り返り

個展時の自分の心情を振り返ります。

個展前日、終わらない模様。

ほぼ完成時の模様。

年明けご飯問題。

初日。

気づき。

2日目。言わなくてもいいことを言う。

変化し続ける作品。

3日目。2日目の終わりに羊が逃げることをやめる。タコは変わらず。

帰り道、作品と仕事について想う。

J-POP?

人生みたいな個展だなと思う。

気づき。

エンタメ作品の告知もしつつ。

中間報告的な映像を作成。撮影は和平さん🙏

身体も綻んでゆく中、満ちた日常の光景で回復。

残り3日。作品解説映像を投稿していく。

残り2日。まっすぐ歩けなくなる。

最終日前日は、逃げBar最後のサイレントフェス。冒頭には音のでる作品群や、倍音楽器、電子音を用いて、水と空気と電気のライブパフォーマンス、最後には『Entropy』の仕上げパフォーマンスと、DJをして締めくくらせていただきました。

VJにより作品に新たな息吹が吹き込まれる。

最後のDJ中の様子。
正面から放たれる光に、様々なことを重ねてみていた。綺麗だった。

最終日、禁じ手に手を出してしまう。

無事復活し、最終日。開店準備のルーティンに儚さを重ねる。

終焉。

と思っていたら

翌朝。泥のように眠り、目覚める。

終わったのに、終わらない。

最終日から2日お休みいただいて、逃げBar映画のクランクイン。

取材いただいた記事も出る。

謎の状態になる。

まとめ?

共に逃げBarを育ててきたサカキさんによる逃げBar最後の個展にいく。

1週間後。


逃げBar White Out、振り返り

本記事公開の4日前。逃げBar通常営業がラスト2回に迫る。

逃げBarに行く最中にふと思う。

最終営業日、前日。

最終日。

その翌日、ロスタイム。サイレントシステムの導入と白葬の共創を賜り、生と死を巡る場をお手伝い。

そして今に至る。

今日は逃げBar引っ越しの日。
自分も年齢を1つ引っ越す、誕生日。


長くつくりつづけた作品には、自ずと自律した人格のようなものが芽生えてしまう、と思っています。子どもだったはずの逃げBar White Outは気づいたらもう、独り立ちできるほど成熟していました。

拝啓、逃げBar White Outさま


5年間、逃げ場としてのお勤めご苦労様です。
どれくらいの人が、足を踏み入れたのでしょう。
傷ついたことや汚されたこともたくさんありましたね。

それでも自分の役目をまっとうしたあなたは強い。
白くいたいけど、他の色とも混ざりたい、孤高と寂しさの自己矛盾。
そのゆらぎ自体が”どこでもない”という居場所になり、多くの人から愛されたのだと思います。

時間も、空間も漂白し、無常の俗世から、いっときの虚空を現してくれました。その世界は多くの場合、ひとりひとりの精神世界の中だけに現れるもので、人間が共にそこに、意識をもって存在できるのはたいへん稀有なことでした。

余談ですが、あなたが生まれる前、はじめは「KOKU(虚空)」という名前にしようと思っていました。でも「逃げる」という普遍的で手の届くテーマを皆で分かち合える今の名前が、やはり良かったなと思います。

あなたはもう親の手も要らないほど、完成した場になりました。

僕自身の個展では、あなたのすべてを可能な限りきれいな額縁に入れて、多くの人に見て、触れて、混ざってもらえる機会がつくれました。亡くなっても、多くの人の記憶の中で生き続けますようにと、祈りました。

サカキさんの個展では、お経のようにしてあなたの死後、導かれる先が穴として開けられましたね。次の場所まで魂が迷わないように、示してくれました。

最終営業日の前日、元々逃げる側だった1日店長が、逃げにきた人へ声かけをしている姿を見て、安心しました。親離れしても、これまで十分に逃げ場として生きてきていたのだと。

最終営業日。もはや誰が店の人で、誰がお客さんかも分からない中、それでも逃げBarは逃げBarでした。不器用な混沌、穏やかな孤独、弱さと弱さでつながる場。もう、人の手も必要なく、あなたは環境として成立しています。

その翌日。遷宮までのロスタイム。
初めてこの場に来た人たちが集いました。ひとりずつ棺桶に入り、知らない人を見送り、涙していました。その際に合わせられた手は、あなたの最も強い光の方に向けられ、重ねて悼まれ、見送られているようでした。

文脈も関係性もなく、これほどの力をもってしまったあなたに、胸を張って「完成」を伝えます。

あなたはこれまで、自ら逃げ場となり、逃げるを問い、人を休ませ、矛盾を赦し、時間を融かし、星の視点から自分を見つめる余白をつくってきました。

汚れも彩りも、白に包括し、何者も受け入れ、何者も何者でもない場を保ち続けてきました。

逃げるも逃すも入り混じる、逃がしあえる関係性を結んできました。
コロナ禍で身動きを封じられながらも、強く、細く、逃げ場として在り続けました。

そして多くの人に惜しまれながら、横浜、三ツ沢下町のあなたは、もう残り数日で幕を閉じます。

次は、南足柄、大雄山の山々と湧水に囲まれた古民家の一室が、あなたのあたらしい身体です。

実に新鮮で、心が晴れる空気に満ちた場所です。
あなたはその場であらたな命をうけ、あらたな光を宿していきます。

あなたを構成するさまざまな要素を、どこまでそのまま遷宮できるのかは、正直まだわかりません。

身体以外をそのままに、身体だけ変えるという行為を、人間はまだしたことがないのです。なので、予測がつきません。

なので少しの恐れはありつつも、名前も、哲学も、記憶も、まとっていた服も、飲んでいたお酒も、ピアノや白い小物たちといった臓器の類も、今しか示さない時計も、あまねく人々の重さを支えてきた椅子も、白そのものとなった赤ちゃんがずっと寝ていた揺籠も、数多の人を再生してきた古びた棺桶も、光を発していたその目も、中枢神経たる白熊も、本も、机も、能う限りのすべてを持っていきます。

きっとそのどれでもない、もしかしたら見えない依代に、あなたをあなたたらしめる大切なものが宿っていたことには、再生を経て気づくことになるのでしょう。

だからこそ、ここでお別れをします。
ありがとう、おめでとう、さようなら。

あぁ、それと、次の場ではもう1人で役割を抱え込むことはありません。

12部屋の友人をつくります。そのすべてに過去作り上げた世界の息吹を吹き込み、独立した世界観を持つ並行世界が並びます。

皆それぞれに一癖、二癖あるけれど、心根はやさしい愛すべき人たちです。だからもう、あなたも逃げていいんです。

もう1人じゃないから、大丈夫。
逃がしあう関係の一端として、肩の力を抜いて生きてください。

それではまた会う日まで。

たいへんよく逃げられました。


移転先「Ozone荘」での営業再開日についてはアメミヤ及び逃げBarのSNSにて、決定次第情報更新させていただきます。


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アメミヤユウ/体験作家
「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。