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『毛布』とわたし

 明後日、作家・文筆家の安達茉莉子さんが新潟に来る。私は安達さんをゲストに招くトークイベントの企画者であり、聞き手を務める。ふつう、こういう文章はイベント後にレポートのような形で書くのかもしれないけれど、ここ数日トークイベントの準備をしながら、安達さんのことをよく考えているので、待ちきれず少し言葉を吐き出すことにした。全体進行のことや移動のことなどイベントならではの「考えるべきこと」もたくさんあるから基本は冷静な私でいるけれど、たぶん安達さんの本との出会いは私にとって大きいし、これからも助けられる気がしている。そんな人が新潟に来て、イベントも含め2日間ご一緒できることは、すごいことなのだ。

 たぶん、安達さんのZINEは3年前くらいに買っているけれど、その時はあまりきちんと認識していなかった。どちらかというと、今回ダブルゲストでもある三輪舎/生活綴方を営む中岡さんの方が先にしっかりと認識したかもしれない。大きな時差はないけれど、だいたい1年半前くらいだろうか。そして約1年前に、初めて横浜・妙蓮寺のお店を訪れた。平日だったけれど、店には週末に控えた文学フリマの準備をしにいろいろな方が来ていた。その活気や、入り組んだ道や、窓から見える庭や、話をしている後ろで手作業で製本している様子を見て、初めて来たのになつかしいような肌なじみの良さを感じた。偶然安達さんもいらっしゃってお会いできて、中岡さんにもちょっとだけ町を案内してもらった。お二人の雰囲気も大好きになった。

 その後新潟に帰って、秋ごろにまだ読んでいなかった安達さんの著書「毛布~あなたをくるんでくれるもの~」を読んだ。他の著書の『私の生活改善運動』は妙蓮寺での生活と自分の変化の話、『臆病者の自転車生活』は自転車にまつわるエピソードと自分の変化の話で、比較的近年のお話を書いている。対して『毛布』は安達さんがたどってきた道と自分の中の変化を、学生時代、新卒時代までさかのぼって丁寧に書いている。ページ数も300頁近くあるのだけれど、飲み込むように読んだ。

 最近見た映画『悪は存在しない』が恐ろしくすごい映画で、そのタイトルをつけることでさらに作品の完成度が一気に上がるな…と思ったのだけど、それと同じくこの本も、『毛布』というタイトルが秀逸すぎる。本当に毛布のように、私はこの本にくるまれた。新しいものを取り入れよう、という本の読み方ではなくて、肩の力を抜いたまま読んで、自分の過去や感情が気づいたらマッサージされたようにやわらかくあたたかくなっていた。

かといって、詩のような言葉や格言だけがばんばん書いてあるというわけではなく、安達さんの具体的な体験や時系列で現れるエピソードにもかなり文章を割いていて、だからこそ時折出てくる本質的な言葉がぐっと胸に刺さる。

作家として本をつくることを実際に始めてからは、ずっと回路がうまく流れている感覚の中にあった。手を動かし、自分がどうしたいかだけで決めていく。目にするものすべてが仕事に繋がっている。そのロスの少なさがまた嬉しい。何をやっても、ちゃんと何かに繋がっている。

フェミニズムに出会って、女を「生産性」「有用性」でだけ判断する社会に生きているのだ、と気づけたことが、正気を保つのに本当に役に立った。
ー中略ー
個人のことは個人で解決しない。ひとりひとりが本当に変われば、湖の水質が変わるように、社会全体が徐々に変わっていくものだ。私もまだ張り付いている殻を貝塚に捨てて、湖の中に入っていきたい。

誰にも頼まれてなくても、生み出そうとすること。自分の中にあるもの、自分が見てきた美しいものを形にしたいと思うこと。それをやっていくと、不思議と、作ったものを誰かが見て、心を通わせられる瞬間――作ったものを通じて、言葉よりもはるかに雄弁に語り合える瞬間がある。

 どの言葉にも納得感がある。けして情緒だけで書いているわけではなくて、「感じたもの」をしっかりと見つめて、とらえなおして、言葉にしている。だから信用して、安心して、頭の中に入れることができた。情緒のままに書いた勢いのあるエッセイもたまに読むし、楽しいけれど、自分の中に溜まっていくものは意外と少なかったりする。それとはなんだか違うのだった。

 私は『生活』を大事にしようと思う時期は20代前半と早かったけれど、自分で自分を許したり輪郭をつくったりしていくことがずっと置いてけぼりだった。とにかく就職活動や大企業のビジネス思考から逃げて、一人で大海原に漕ぎ出る怖さにやられて、やさしい人たちのいる新潟の内野に来た。やさしかったり同じものが好きだったり興味を持ってくれる人たちに囲まれて、そこに承認をゆだねてしまった。そうしたら、自分で自分を承認する力を育てるのが少し遅れてしまったのかもしれない。
 もしくは、逃避・反発した先の世界でもなお、優等生思考のクセが染みついていて、『善いこと=期待されること』を察知してやり続けていたのかもしれない。やさしくておもしろい新潟で出会った人たちや、心のやわらかい学生たちに喜んでもらいたくて、頑張っていた。その過程を否定はしない。その年齢、時代、環境の中での自然な状態だったと思う。だからこそ失敗や落ち込みや回復を経たころの私に深く響いた。

 『毛布』に、自分で自分を承認するやり方を教えてもらった。そして、解けかけていたいくつかの呪いを完全に解いてもらった。エリート思考、女性性、孤独、創作……ひとつだけでなく、複合的なキーワードで語ってくれたから、今の私とますます重なった。

 特に、「個人的なものが社会的なこと」という考え方に、とても同意しているし堂々とそれを書いてくれて本当にありがたいと思った。私はとても個人的な文章を書くし読むし、個人的な感覚こそに社会が変わるヒントがあると、地方のまちづくりにおいても考えてきた。だからこそ、目の前にいる人の表情や、言葉や、変化を受け止めて思考するのが仕事のひとつだと思ってきた。その姿勢が報われたような気がした。もともとわかりづらい職業だし、ましてやここから出版レーベルを始めるなんて、キャリアのモデルも圧倒的に少ないけれど、間違ってなかったのかもしれない。

 最後の方に書かれていた「ウサギのおもちゃ」のような創作物は、私にとってZINE「お湯が沸く」でありつくりたての雑誌『なわない』なんだと思う。これからどんなことが起こるかわからないけれど、時折『毛布』を読み返し、励まされながら進んでいくんだろう、ということは確信を持っている。

(ちょっとまとまっていないけど眠いのでここまで)


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