瞬間、ヨドバシカメラ重ねて。
わたしは現在の大学に入るまえ、一年の浪人時代を送っている。
ほとんど独学でのし上がってきた自分のベンキョー方式が、二次試験の会場に入って初めて、少しも太刀打ちならないワと悟った。幼時からナゾに秀でている暗記力に頼りきって論理力の涵養を怠ってきたこと、さらに現役受験の冬、その肝心要であった暗記力を世界遺産検定(いわゆる「せかけん」)取得に傾注したこととが敗因である。
(ちなみにこの「せかけん」、高校生当時は2級に及第、そして昨夏には1級合格しました。いつか記事にしたいところですが、当時わたしは「学校初」の看板を持ちたくてウズウズしていました。「ま、英検で看板取るか」と動きはじめた矢先に理系の友人が奪取したため方針転換。結果、漢字検定でも歴史検定でも数学検定でもなく、「せかけん」に逢着。この果てしない頭脳遊戯には魅了されました。)
浪人してはじめてちゃんとベンキョーらしいベンキョーを知った。
無事に受験も済み、回顧してみるにすこぶる豊穣な一年であったとおもう。
しかし受験リトライ真っ只中にあったわたしは着実にグロッキーを極めていた。
高校受験のとき突如起きたカコキューの発作が、数年隔てたいま俄かに蘇ってくるように感じ、般若心経を誦じたり、寝床で悶えたりの日々を送った。
「檸檬」で梶井基次郎が描いた<不安>さながらに、ぎりぎりと締め付けられる心。輝きを減衰させる瞳。見知らぬ、天井。
そんなわけで、わたしは幾度か予備校から脱兎のごとく逃げ出している。
卯年ですから、仕方がないのかもしれない。
いよいよ受験アゲインを迎えんとする冬にさえ、宵闇に沈む海を目指して級友一名と弾丸徒歩旅行数十㎞を敢行した。実際は、ひたすら海を目指したというよりも、河川を下流まで辿るうち途中で怖気づいて「次コンビニ見つけたら引き返そう」と決めてから、さっぱり店舗が絶えたため、けっきょく厳寒の海に着いたというほうが正しい。
海で男二人が叫んだ言葉。じつに哀歓に満ちた浪人時代らしい言葉であった。
海への逃避行だけではない。
「黒の旋風」を起こして西洋のファッション界を瞠目せしめたコムデギャルソン、さらに予備校校舎の近傍にある画廊や骨董屋に入り浸った。
書店、とくに古本屋への執着には並々ならぬ情熱を燃やし、わたしの辞書に掲載されている「近く」の範疇におさまる全ての書店を尋ね回った。店舗が校舎から近ければ日々顔を出した。そして、書物を買った、買いに買った。
書店通いにつれて怒濤に蔵書が殖えた。読んでも読んでも、消費を超える量を買う、買う。いまある一千の蔵書のうち大半は当時の遺構である。
新潮や岩波といった比較的廉価な文庫だけでなく、ちくまや講談社文芸を筆頭とする高級文庫ラインにも盛んに手を出した。単行本も買い集めるし、全集にも眼光ぎらつかせ、そしてあくまで古書も漁った。初版とあれば歓喜に打ち震えた。
この状態を一般に、節操がない、という。
よく財力が払底しなかったものだとおもう。
サテそんななか、お大尽のわたしにもさすがに購入をためらう書物があった。
それこそ、本稿の主題たる島崎藤村の『若菜集』第五版である。
第五版。19世紀から20世紀に移ろうかという頃の書物。
出版からほとんど一世紀を閲しているだけあって、結構な価格である。
ヤ、これは高い…と諦め、いちどはそのまま退店した。
無論、その代わりに、投げ売り状態の岩波文庫を山ほど買うのだが。
ひとたび諦め、ふたたび諦め、みたび、と繰り返しているうちに、『若菜集』に人格が見えてくるようである。秋波を送ってよこすようである。
そういえば、昔から「初恋」が気に入って暗記したものだ。島崎はあのような名歌メイカーなのだ、きっと本書はスバラシク愉快だろう。
おい、考えてみろ、「彼女」がほかの人に持ち去られるとしたら。ああ切なかろ…
気がつくと、わたしは彼女とともにレジスターに立っていた。禿頭の主人がわたしの審美眼を讃える。莞爾と笑ってみせたいが、財布から飛び立った褐色の紙幣令嬢に胸を痛め、口角が引き攣る。エヘヘ。
これは大層な書物を買ってしまった。
わたしは芥川が描いた『芋粥』のような、身に余る幸福を得たのではと震えた。
買ったからには、島崎の胸にあった美しき心象風景を目撃せねば。
余すところなく、高尚に楽しまなくっちゃ。
ああ、「初恋」はやはり良い。青春を生きる者らしい心の機微が見えるようだ。
フム、「暁星」。これはお気に入りだ。煌びやかな風景が眼中に開ける。
目をスポンジ状にして浪漫を吸い出しているさなか、テレビの音が聞こえた。
何事か。いま吾輩は『若菜集』を耽読しておるのぢゃ。
ご存知の方も多かろう、このリリック。なんだこの歌詞は知らんという方でもリズムやメロディは旧知のはず。天下に名高いヨドバシカメラの歌である。
日本の島嶼各地に展開されているだけあって歌詞にはいくつも亜種が存在するとされる。仙台以外のリリックの存在をわたしは今日初めて知った。
時間にして15秒のコマーシャルが鼓膜を駆け抜けた。
幼時からの刷り込みだろうか、ヨドバシ・ハミングをふいに歌ってしまう。
いかんいかん、さあ、『若菜集』の続き。もういちど「初恋」を読もうか。
…ム。いかん。
ヨドバシ・ハミングが重なる。ええい、離れろ。
ああ、なんということだ。「初恋」がやられてしまった。
リリック全篇を通じてリズムがリフレインされているからヨドバシが急速に拡がる。しかも、いちどヨドバシかも、とおもったら、離れられない。
あな恐ろしや。
「あれはオリオン座なのよ」と説明されたら、あの恒星の並びがオリオン座にしか見えなくなるのと似ているかもしれない。これはヨドバシ座。
わたしは「初恋」を離れ、期待を籠めてべつのページに移った。
「暁星」なら、あるいは他の歌なら、大丈夫じゃないかという期待を。
しかし、なんとそこにも、ここにも、きっとあすこにも、ヨドバシの影がある。
「高尚」な読書タイムのはずが、いまやハミング・フフンに!
おお。悲嘆に暮れて天を仰ぎつつ、しかしどこかで楽しんでいる自分がいた。
肩肘張って「この本は大変結構な本だから」と目を凝らすよりは、ずっと力を抜いて、まさに「歌」として『若菜集』を楽しめたようにおもう。
この「発見」を予備校の現代文講師に急ぎ伝えると(わたしもピュアなもんだ)、おお、そうかもしれない、ほお〜と感心を示してくれた。
こんなふうにして、適宜逃走と遊戯を交えながら、わたしは浪人を乗り切った。
ベンキョーには、読書には、決まったやり方は無いのである。
さあ、あなたの番です。恥ずかしがらずハミングを!
世界遺産検定受験もぜひご検討あそばせ。
ひたすら暗記するのも一興あります。
I.M.O.の蔵書から書物を1冊、ご紹介。 📚 かくれた次元/エドワード・ホール(日高敏隆・佐藤信行訳)