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才能

自分のうつのことは関係ないんだけど、今日は思ったことを書きます。

大学生のころ学内のフリーペーパーの構成を考えたり、中身の文章を作っていた同期が、入社後直属の先輩に「お前は文章書くのが下手だね」って言われたらしい。

それからその同期は、文章を書くのが嫌いになったとか。

好きなこと、自分の専門分野を他人に「向いてない」「下手だ」「才能ない」って言われたらそう思うのが当たりまえだよね。

でも、入社直後の1年目。自分が今まで好きだったことを仕事にしたのに「下手だ」と言われた同期。その先輩はまだ1年目の後輩の「好きなこと」をたった一言、しかもその先輩のセンスで「嫌いなこと」に変えてしまったんだ。

私はその同期の文章力やセンスを実際には知らない。だけど、大学のフリーペーパーの構成を考えて文章を書くくらいだったんだから、能力がないわけではないと思う。

本当に仕事ができないのは、たった一人の先輩に認められなかった同期ではなく、一つの才能の芽をつぶしたその先輩なのではないのか。

先輩や教師という、人を「育てる」立場の人間が「育てる」という仕事を放棄して後輩や生徒、学生の芽を枯らしてしまうほうがよっぽど「センスない」と、私は思う。

誰しも、才能がない人なんていない。仮に最初はセンスがなかったとしても、訓練すればそれなりの才能や能力は身につく。

だからどうか、たかが一人、もしくは数人の「才能ない」という言葉を鵜呑みにしないでほしい。

向き不向きは人が決めることじゃない。自分がその物事に対してどう思うかである。「自分は本当はこれは好きじゃないかもしれない」と思えばそれは向いていないし、「なんだかんだ好きかも」と思える程度なら、それを伸ばすために時間を使ってほしい。

上に立つ人間は、簡単に人の能力に見切りをつけないでほしい。教育する立場の人間は、その人がどうしたらもっとうまくやれるかだけを考えて、指導してほしい。

人から「好き」や「得意」を奪わないでほしい。

「好き」や「得意」が誰かのせいで「嫌い」や「不得意」に変わりそうな人は、その物事を「好き」や「得意」だと思っていた自分を思い出してほしい。

きっと、誰にでも才能の芽はある。それを踏み潰すか、活かすかは本人と指導者の手にかかっている。

「天才」や「奇才」にはなれなくても、きっと一人一人が自分の能力で輝ける場所はある。

私が指導する立場になったら、このことは絶対に忘れないように。自戒の意も込めてここに記す。

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