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「国際協力」は善でも悪でもない

皆さん、こんにちは。

本日は「国際協力」の話をしたいと思います。

「国際協力」と聞けば、開発途上国で現地の人たちと汗をかいて笑顔で井戸を掘っている若者を想像する人が多いと思います。

または、「国際協力」は偽善であるとか、そんなことよりもすべきことがあるだろう とか言う人も一定数存在します。

さて、「国際協力」は善なのでしょうか、悪なのでしょうか。

「国際協力」は善だと信じてやまない人へ

迫害や生命の危険から逃れ、国境を越えてきた難民の安全を保障し、住む場所や食べ物、水、衣類、医薬品、生活用品などを提供してくれる場所として難民キャンプがあります。

難民キャンプという形で安全が保障され、安心した生活ができる。それ自体は素晴らしいことですし、緊急的な援助として必要なものだと思います。ただ、こういったプロジェクトは永遠には続きません。そこには、「予算」と「期間」が存在するからです。定められた予算が定められた期間に執行され、その期間が終われば、それがいくら社会的な意義が高くとも撤退するタイミングが必ずやってきます。

そもそも、難民になることを余儀なくされている人たちは、元々住んでいる地域が「荒れて」いる。作物が育たないような土壌や天候と共に生活をしなくてはならない地域であったり、宗教的な対立が存在する地域であったり、そういう「荒れた」地域なのです。緊急援助の期間が終了したら、明日食えるかどうか、明日命があるかどうか、そういう安心や安全が全く守られていないような生活に戻すのです。然るべきタイミングで難民キャンプはすべてをたたんで、撤退しなくてはならないからです。

「国際協力」が善だという人に言いたい。難民になってしまわざるを得ない人たちを社会的インフラが整備された難民キャンプで支援して、最終的には社会的インフラが未整備の地域に戻すことの是非はどう考えますか。

「地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions)」というヨーロッパの古諺があります。「善意でなされた行為であったとしても、その実行により意図せざる結果が招かれる」という意味です。「支援漬け」というのも、この業界においてはよく議論に挙がります。支援の結果、自主性を失って、支援を前提にした生活をデフォルトにしてしまう。また、汚職の問題も付き物です。途上国では、公表されている給与水準ではおよそ入手できないであろう高級車に乗っている官僚が多くいます。高度に複雑化した「国際協力」においては、善意に基づいた支援が結果として思惑通りに作用しない、そういうことが頻発するわけです。それらについて、「国際協力」が善だという人は、どのように説明して、納得するのでしょうか。

私は「国際協力」が善だとは思いません。

「国際協力」は悪だと信じてやまない人へ

だからと言って、すべての「国際協力」をやめてしまってよいのでしょうか。それは、ナイフや銃が人間を殺す道具なのだから、すべてを規制しようだとか、恋愛やセックスの悪い面だけを取り上げて人間にとって悪いものだから、すべてを禁止しようとか、そういう発想と同じです。「国際協力」も善いものにもなれば、悪いものにもなる、そういうものだと思います。

JICAでもこれまでの事業についてを第三者が評価していますが、プロジェクトが終わった後でその成果が見える形で機能していないという評価を下しているプロジェクトは山のようにあります。そういったプロジェクトの評価を受けて、最終的には元の木阿弥になるのだからやる意味がない、すべてやめてしまえというロジックに安易にうなづいていいのでしょうか。

私は「国際協力」が悪だとは思いません。

「国際協力」は善でも悪でもある

では、「国際協力」が善であることも、悪であることも否定して、僕がどんな立場をとるのかと言えば、そのどちらでもないという立場を取りたいと思う。それは、思考を放棄しているのではありません。現状で善悪の判断がつかないものについては、その判断を一旦保留にしておくというのは、こういうものに対する正しい向かい合い方だと思います。少し唐突ですが、例えば「死刑問題」です。国が人間個人の命を奪ってはいけない、死刑制度は廃止すべきだとするならば、愛する人の命を奪われた遺族の気持ちはどこに向かうのか。一面を切り取れば価値判断できるけども、総合的にはYESともNOとも言えない、そういう事柄に対しては、一旦判断を保留にしておくことが重要だと思います。

目の前のことに白か黒かで判断するのではなくて、その間のグラデーションに中にその身を置くことが必要なのだと考えます。だからと言って、ずっと考えておきましょうと言いたいのではありません。それでも判断をしなくてはいけない時は来ます。判断をしなければならない時には、その時の最善解を場に出す。結局は、手持ちのカードを組み合わせて場に出すしかないのだと思います。判断を要求される、その時がやってくるまで「矛盾」の中に身を置きながら、思考を張り巡らすことが知的にふさわしい態度だと思います。

出来るだけ善に寄せるのが人間である

善にも悪にもなるものですけど、できるだけ善になるようにするのが人間だと思います。それは、個人の努力でもあるし、議論を尽くすことでもあるし、悪に寄らないような仕組みを構築するというのもそうです。そういう不断の努力の積み重ねが「今」だと思います。

「今」を未来への足掛かりとして捉えるだけではなく、過去の結果であるという仕方で認識し、善に寄せていくこと、それが成熟した人間のふるまいだと思うのです。

それでは、アディオス!


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やまなかゆうた
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