お前はお前の道をゆけ
昨晩は仕事を速攻で切り上げて、「銀河鉄道の夜」を読む読書会へと行ってきた。
読書会のために表題作を読み返していたのだが、やはりいい話。電車の中じゃなければ多分泣いてたと思う。賢治作品の中では異色らしく、テーマがテーマだけに重くなってしまうところもあるのだけれど、自分はこの寂しくも美しい感じがとても好きだ。(ちなみに、主催者の方は「月夜のけだもの」が好きとのこと)
読書会では参加者自身の人生を振り返るような真面目な話もたくさん出てきたし、「なぜジョバンニの母親は夫が監獄にいるみたいなことを言ってたのか」というような豆知識も知れて勉強になった。
そんな中で自分が触れたのが、改稿についての話である。「銀河鉄道の夜」は遺作であり、賢治が亡くなってから出版されているが、その版に辿り着くまで著者は三度も書き直している。自分が初めて読んだ銀河鉄道の夜は上の写真にある赤い表紙の旺文社文庫版で、ここには第三稿と第四稿のミックス版(?)が収録されているのだ。
そして、第三稿までと第四稿は、オチが全く違うといっても過言ではない。第三稿までのラストには謎の博士が出てきてジョバンニに色々伝えるのだが、四稿でそれらはバッサリとカットされている。いったい賢治はなぜ大胆にオチを変えたのだろうか?
青空文庫に初期系のラストシーンが掲載されている。ここだけではややわかりにくいかもしれないが、唐突に博士が出てくるのは第三稿でも同じ。
最初にこの第三稿のラストを読んだときは、普通に感動した。当時の読書ノートにも博士の「さあ、切符をしっかり持っておいで」というようなセリフが抜書きされているし、賢治の言いたいことがかなりハッキリと書かれていてわかりやすい。
だが、改めて最初から読み返してみると、物語としての完成度はやはり四稿の方が高い。第三稿のオチはそれまでの話の流れをぶった斬ってしまっているので、スッキリはするものの、読後の浮遊感みたいなものが半減している。読書会でも話があったが、博士のセリフはやや説教くさいのである。
ただ、ラストシーンが大幅に変わっても、賢治の伝えたかったこと自体はおそらく変わってはいない。銀河鉄道の旅という非日常から日常の世界へと戻ってきたジョバンニが向かうのは、彼自身の人生である。本当の幸いを見つけるためにも、自分の道を歩んでいかなければならない。私はそう読んでいる。
自分の人生を生きる、というのは古今東西の小説やら随筆やら自己啓発本で何度も何度も語られてきたことだと思うけれど、私はいまいちこの感覚がわからない。そういった言葉を読んだり聞いたりしているときは「それめっちゃ大事だな〜」などと思っているのだが、すぐに忘れてしまう。だから側からみると、自分を大事にしていないように見えてしまうこともある。それは賢治の描くような利他の精神ともまた違って、自分が一方的にすり減っていくだけの状況に陥っているのかもしれない。誰も幸せにならないやつである。
自分を大切にする方法としてよく聞くのは、「自分の心の声に耳を傾ける」といったものだ。だが、私の場合もう色々なノイズが多すぎて(あるいは、ノイズに反応しすぎていて)、何が自分の声なのかもわからなくなってしまっている。
日常というのはそんなことの繰り返しで、気づけば自分のことが何も分からなくなっている。
逆に考えると、そんな状況だからこそ、本が読めるのかもしれない。何もわからない。世界の中で溺れそうになっている。だから、藁をも掴むような気持ちで、本にしがみついている。そうやって生きていくしかないのかもしれない。
昔々、あるところに読書ばかりしている若者がおりました。彼は自分の居場所の無さを嘆き、毎日のように家を出ては図書館に向かいます。そうして1日1日をやり過ごしているのです。 ある日、彼が座って読書している向かいに、一人の老人がやってきました。老人は彼の手にした本をチラッと見て、そのま