【旅日記】一枚の銅板を叩いて作る「うつわ」、鎚起銅器を求めて玉川堂へ(新潟県/燕)
鎚起銅器と聞いて何を連想するだろうか?銅器というからには銅でできた「うつわ」だろうか。鎚(つい)で起こすと書くので、ハンマーで叩いて銅板を器に形づくる(起こす)と字面から想像できるかもしれない。そんな手作りの伝統工芸が新潟県の燕市に存在する。今回は、その鎚起銅器を求める旅だ。
きっかけは、JR東日本の「どこかにビューーン」というサービスだった。これは、JREポイントを6,000ポイント消費して新幹線でどこかに行けるというサービスである。そして、たまたま行き先として決まったのが、新潟新幹線の駅「燕三条」だった。燕三条といえば、金物の生産で有名な町というイメージだが、どんな町でどんな観光スポットがあるのか最初は全く知らなかった。たぶん、どこかにビューーンを使わなければ旅行先として候補に挙がることもなかったかもしれない。こういう偶然の出会いを大切にしたい。
旅行に出かける前、おもむろにGoogle Mapを広げて見ると、「行ってみたい場所」のピンが1個だけポツンと立っていることに気がついた。周りは市街地に見えるが何かあったかなぁと思って、そのピンをタップすると「玉川堂」というお店の名前が出てきた。伝統工芸である鎚起銅器を制作している工房だ。ちょうど、土曜日は開店しているらしいので訪ねてみることにした。
金曜の夜、仕事を終えて東京駅から新幹線に飛び乗り、燕三条駅に向かった。その日は駅近くのアパホテルに泊まった。5,000円ほどの金額で、オーバーツーリズムが叫ばれる中、破格の安さだ。心配になるくらいに。ただ、値段は安くても、部屋はいつものアパホテルだった。
翌朝、せっかくなので、燕三条のホテルから玉川堂まで市内をブラブラ歩いて行くことにした。燕三条の周りは普通の住宅街といった感じで、寂れた様子はない。30分ほど歩くと、周りとは明らかに異質な空気感を漂わせている建物が見えてくる。今回の目的地「玉川堂」である。ひと目見てすぐにここだと分かった。
玉川堂には8時半頃に到着した。ぱっと見普通の民家のような出で立ち。店先というより玄関だ。本当に入っていいのかわからなくて心配になる。思い切って玄関の扉をガラガラと開くと、そこだけ明治時代にでもタイムスリップしたかのような空間が広がっていた。
誰もいない。私一人、呆然と立ちすくむ。「すいませんー」と勇気を出して声をあげることができずまごまごしていると、犬がやってきてワンワンと吠えてきた。緊張が走る。犬の吠える声でお客さんの来店を知らせた。お店の人が出てきて「見学ですか?」と聞かれたので、「鎚起銅器の作品を購入したくて…」と言葉少なに答えた。「では、靴を脱いで中へどうぞ」と中に通してもらった。犬にはただただ感謝しかない。犬が吠えていなかったら、途方に暮れてそのまま諦めて帰っていただろう。
建物に入った先は、本当に民家の玄関のような作りで、靴を脱ぐとその先はお茶の間のような座敷になっている。お店でもあるので、鎚起銅器の作品たちがきれいに展示されている。事前に玉川堂のホームページを確認していて、茶筒もしくは茶托を探していたのだが、展示されている品の中にはなかった。
作品を眺めていると、お店の人が鎚起銅器で作られたグラスに麦茶を入れて運んできてくれた。まるで、親戚の家に遊びにきた感じだが、お客として来ている。なので、ちょっとかしこまったような、ちょっと落ち着いたようなそんな不思議な感覚になる。ボーン、ボーン、ボーンという振り子時計の鳴る音。やかんに囲炉裏。なにしに来たのか一瞬忘れてしまそうになる。
お店の人に「展示されているもの以外にも商品はありますか?」と尋ねてみた。「どんなものをお探しですか?」と聞かれたので「茶筒や茶托はありませんか?」と聞いてみた。「茶筒や茶托は最近だと数が出ないので、あまり生産していないんです。数は少ないんですが、いくつかお持ちしますね」と言って、奥へ引っ込んで品物を探してきてくれた。そして、お店の人がテーブルの上に探してきた品を並べてくれた。
茶筒は在庫がないようで、茶壺という茶葉を保管しておく入れ物を2点出してもらった。「最近、茶器の問い合わせが急に増えていて品薄なんです」とおっしゃっていた。茶筒に関しては近年では需要がなかったのでしばらく作られていないらしい。片方は、壺型のコロンとした可愛らしいフォルムで、均等に叩かれた槌目と表面の青みがかった色合いがなんとも言えない。もう片方は一回り大きいサイズで、横縞の入った壺型のフォルム。どちらも、最近作られたものではなく、昔の作品ということでとても貴重な品だと思った。
続いて出してもらったのが茶托。茶托は煎茶用の一回り小さいものはたくさん品があるそうだが、通常サイズの茶托は、こちらもまた最近だと作られていないらしい。通常の茶托の方には彫金が施されており、松の模様や梅の花の模様が型どられていた。表面は同じく青みがかった色合いでこちらも趣がある。
どれにしようか品物を手にとってはテーブルに置くのを繰り返した。麦茶を飲みながら、こんなにまったりと品物を吟味することは普段なかなかないだろう。この悩んでいる時間も有意義である。また、お店の人が席を外してくれるのでゆっくりと選べる。悩んだ末、小さい方の茶壺と松の模様が入った茶托をそれぞれ購入することにした。
「こちらの品物をください」と言うと、苔色っぽい布に丁寧に包んで箱に収めてくれた。その様子を会話しながら眺めていた。よろしければということで、名前と住所も書き残してきた。「〇〇とは珍しい名字ですね」という話になり、実は新潟に〇〇という地名があるという話も伺った。
昔の鎚起銅器の中には、彫金といって彫り物の入った器があったそうだ。明治時代の頃。彫金をするためにわざわざ槌目を削って表面を平らにし、その上に彫金師が彫り物を入れるのが主流だったようだ。現在では、槌目で模様を作るシンプルなデザインが好まれているが、それは比較的最近になって主流となったデザインだという。伝統工芸と言っても、生き残りをかけて時代とともに変化しているのだということが覗える。
昔だと、器を形作る鎚起職人は脇役で、とにかく数を作れという時代だったらしい。そんなわけで当時の花形は彫金師であり、他の職人よりも高い位置に席を構えて、集中できる空間が用意されたという。彫金師は最初から新潟にいたわけではなく、明治時代の初め頃、廃刀令のあおりを受けて、刀の鍔を彫金していた職人が職にあぶれて、京都や江戸から新潟の燕に流れてきたそうだ。
現代では、鎚起銅器の代表作といえば「やかん」だと思う。銅板一枚から叩いて作られ、溶接を一切しておらず、まさに伝統工芸の粋と言えよう。あれは明治時代の当時、まだ地位が低かった鎚起職人の威信と技術力の高さを示すために作られたのだという。ただ、現代の職人も負けてはいない。玉川堂の職人が常滑まで赴き、常滑の職人さんから急須の勉強をさせてもらうという技術交流もあるそうだ。
様々な貴重なお話を伺った後、「せっかくですから、工房も見学されますか?」と聞かれた。中を見学するなんてめったにない機会なので、お言葉に甘えて見学されてもらうことにした。土曜日だったので、職人さんはおらず工房はガランとしていたが、木造の昔ながらの工房を前に、職人さんたちがカンカンと銅板を叩いている様子を妄想した。
燕市で銅の加工が盛んに行われた背景として、銅が近くで産出されたことが一因だという。銅板は叩いていくとだんだん硬くなっていくが、熱伝導率が高いので、熱を加えるとすぐに柔らかくなり加工しやすくなる。この銅の加工しやすい特性があったからこそ、科学があまり発達していなかった頃から複雑な金属加工を可能にしたのだろう。実演として、熱した銅板を触らせてもらってどれくらい柔らかくなるのか体験させてくれた。熱する前は、カッチカチでちょっとやそっとでは曲がらないが、熱すると手で簡単にグニャりと曲がった。
槌目ひとつ取っても、槌(金槌)の種類によって模様も変わる。表面が平らな金槌もあれば、模様のついた金槌もある。模様がついた金槌は、銅板を叩くとその模様が表面に浮かび上がる。
器の着色は科学の実験だ。錫を銅の表面につけて、その後、硫化カリウムなどで化学反応を起こして様々な色をつける。伝統工芸の裏には科学があった。現代科学に照らし合わせると、ちゃんとした理屈があって作られているのだ。昔の人はそれを全て経験則でこなしていた。理由はよくわからないが、着色するとき最初に大根の汁に浸けるそうだ。おそらく、これにも理屈があるはずだ。
着色も工夫することで様々な模様に仕上げることができる。錫を塗ったところが着色されるということは、錫を塗らない箇所を作ることでまだら模様や波模様を表現できる。
一通り工房を見学させてもらい、玉川堂を後にした。お店の人にもっと深く鎚起銅器の歴史を知りたいなら「燕市産業史料館」がオススメですよ、と言われたので行くことにした。15分行った先にあると言われたが、30分以上かかった。
「遠いよ、お姉さん…」
とお店の人の顔を思い浮かべた。だが、燕市の金属加工の歴史や資料を見られるとても良い博物館だった。