甘えるんじゃない! いや、甘えてないからこういう状況なんだと訴えさせて欲しい
妻が恐い。
仕事をしていない私に対して妻が不満をいだいているのは間違いない。過去には何度も仕事の件で責められたことがある。最近は不気味な沈黙が続いているが、いつ、「いつから働くの?」と言ってくるのか予測不能だ。
「私は仕事もせず、妻に甘えて生活をしています」
以前、カウンセラーにそう言うと、
「甘えてないと思いますよ」
という答えが返ってきた。
カウンセリングを終えてから考えていた。
妻に金銭的な迷惑をかけている自分が甘えていないとはどういう意味か。
世間からすればどう考えたって甘えた男のはずだ。
一週間くらい考え続けた。「甘えていない」という結論に達した。
これから書く私の言い分は母親との愛着関係を築けている人が読むと、
「ふざけるな。そういう考え方を『甘えている』というんだ」と腹が立つかもしれない。お赦しを。
人に甘えることができる人というのは母親から甘えることを許されてきた人だ。
赤ん坊のとき泣くことで意思表示をした際に、泣く原因となった欲求の充足や不快の排除を的確に行うことにより安心を与えてくれる母親に育てられた人は甘えることを許された人である。甘えの原型はこの母子関係にある。
私の母はこれがうまくない人だった。「お前は赤ん坊のときの記憶があるのか?」と問われたら「ない」と答えるが、物心ついてからの母の行動を見ていれば赤ん坊のときにどのように扱われていたのかは想像できる。
物心ついてからの私が知る限りの母親は常に、「かゆいところを確実に外してくる人」だった。
あまりに外してくるので、母に対して、「この人は頭が悪いのではないか?」と思っていた。まさか人の心が理解できない人だとは思っていなかったから。
さて、甘えを学べなかった被虐待児は幼稚園や小学校に入学しても人と対等な関係を築くことができない。甘えではなく、親に従うことしか教えられなかったため友だちができても「うまく合わせる」ことが最優先事項となり、自分の意見を述べるのは後回しだ。そういう関係を対等とはいわない。
以上を前提として。
私がもし、人に甘えるということを知っていたなら、なんら迷うことなく仕事を探し、仕事をしている自信がある。
もし私が甘えるということを知っているのであれば、新しい職場で初出勤したとして、初めての職場で右も左もわからず役に立たない私のことを周りの人は「初日だから仕方ない」と認めてくれるだろうと考えられる。
しかし私はそう思えない。人はそんなに優しく甘くない。初日からベテラン並に働きやがれとガンガン自分を責めてくるに違いないと考えるのである。
実際そういう職場を何度も経験した。だが、そういう職場であっても、わからないことを人に尋ねるということが普通にできるのであれば乗り越えることができる。
しかし私は人に尋ねるのが恐ろしいのだ。わからないことを尋ねても人はそんなに優しく甘くない。「自分で考えろ」と言われるだけだと考えてしまう。
実際、そういう職場も体験した。だが、自分で考えろと言われたとしても、そう言った人や、それ以外の職場の人たちのことを「基本的には悪い人たちではない」と信じられるなら、その厳しさも乗り越えることができる。
自分で考えてやっていけば、そのうち認めてもらえるだろうと信じられるからだ。
しかし私は周りの人たちを恐怖の対象としか考えられない。
人を信じられるというのは、その人に甘えているということである。
警戒心を全開にしながら人を信じることはできないだろう。
安心という甘えがあって初めて人を信じられるのだ。
私は人に甘えていない。
だから人を信じられない。
だから人が恐くて仕事ができない。
こういうことをいうと、「甘えを正当化しやがって」とか、「お前みたいな奴は奥さんに見捨てられて食うに困るようになって嫌でも働かなきゃならない状況になればいいんだ」という意見を持つ方もおられるだろう。
もし私が妻から離婚を告げられ食うに困ったら、果たして働くことを選ぶだろうか?
食うに困ったとしても、人が恐いという気持ちに負けて、何か別の選択肢を選んでしまうのではないか?
私が妻に甘えているのなら、妻をこれほど恐れるはずはないし、妻を信じてもっと自分の気持ちを伝えるはずだ。わかってもらおうという努力をするはずだ。
でも私はそれを最近諦めはじめている。自分でもそれが恐ろしい。
とにかく私は人が恐しくて恐ろしくて仕方ないのだ。
人に甘えるなんて、とてもできたものではない。
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今回はこれにてご無礼いたします。
ありがとうございました!
みなさま、ごきげんよー