怖いけど、知ってみる
生きていて、まったく楽しくない。
五〇歳にして、このことに気づいてしまった。
それを妻に伝えると、
「そんな人と一緒に暮らしているこっちの身にもなってみろ」と怒られた。
妻には申し訳ないとは思う。だが本当だから仕方ない。
生きていて全く楽しくない一日の心持ちは以下の通りだ。
朝
目覚めると、「また今日も生きなくてはならない」という義務感のみで目が覚める。
日中
とにかく人に関わりたくない。道ですれ違うだけでも人が恐い。電車の中では周りの人の存在が気になって落ち着かない。店に行けば店員が恐くてゆっくり買い物ができない。スーパーのレジに並ぶと前後に人、レジにも店員がいる。恐い。
たとえ人がいないところでも人のことを考えると落ち込む。
今は無職だからまだましだが、仕事をしていたときは人に囲まれて毎日緊張の連続だった。
とはいえ無職には無職の悩みがあり、将来のことを考えると惨めなビジョンしか浮かんでこない。かといって仕事もできない。葛藤がしんどい。
夜
緊張から解放された一日の最後くらい何も考えたくないし、明日が来るのも恐い。
だから大量の酒を呑んで気絶するように寝る。
こうやって五〇年耐え続けてきた。
本当に耐え続けてきたという表現がぴったりだ。
人が恐いという思いに耐えることが私にとって生きるという意味だった。
振り返ってみると私はずっと孤独だった。
そのおかげで私は生きていて、まったく楽しくない人生を送ってきた。
五〇歳にして、やっと自分の本当の気持ちがわかり、それを言葉にできた。
自分は孤独で、何一つ楽しくない人生を送ってきたのを認めるのには時間がかかった。それを認めてしまったら、過去の全てを否定することになる。自分が空っぽになってしまう。これまで積み上げてきた物語が壊れてしまう。自分が自分じゃなくなってしまう。そこには絶望しかない。生きていけなくなるかもしれない。
生きていくのは今でも楽しいことではないが、生きていてまったく楽しくないと認めたからといって生きていけなくなるということはなさそうだ。
それどころか認めてしまってからのほうが、本当の自分を知ったぶんだけ力が抜けたところもある。それが具体的にどこなのかはわからないけれど、生きていて全く楽しくない自分を認められなかったときには戻りたくない。
精神科医の高橋和巳医師は著書で次のように述べている。
知ることで生き方が変わる。
知ることで存在の立て直しがはじまる。
その意味が、今、よくわかる。
知るまでの過程は苦しい。
どんなに悩んでもわからなかったり、やっぱり知らなくてもいいやと諦めたくなるときもある。
葛藤のなか、ある日、ぼんやりと気づくときがくる。
そこから少しずつ、何かが変わりはじめる。
私はその過程の真っ只中にいる。
これからもっと深く自分のことを知っていくつもりだ。
苦しくて辛いだけで、まったく楽しくない人生にはもう飽きた。
楽に生きたくてたまらない。
今度こそ、地獄から抜け出せるかもしれない。
自分を知ることで、希望が見えている。
今回は、これでご無礼いたします。
ありがとうございました。
みなさま、ごきげんよう。
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