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映画「フェイブルマンズ」 映画と契約した男
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□母の業
サミー少年すなわちスピルバーグ少年は、家族のキャンプを撮影をした。
その素材を編集して映画をつくる。
監督というのは、ひとつの素材から複数の作品をつくることもできる。
このときの1本は「大好きなママ」。
もう1本は「恋するママ」。
世界的監督が小さく暗い映画館のような空間で最初に迎えた観客は母親だった。
ママにママ自身の映画を披露した。
人は自分のことはわからないもので、映されたものからはからずも自分を知ることがある。
後年彼はエンタメ作品で世界を魅了するが、最初の作品は最愛の人の業をえぐる作風だった。
皿は洗わないけど、ピアノとダンスと笑顔が美しい最愛の人。
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□監督の業
同じように同級生たちのサマーキャンプの様子を撮影した。
サミーだって弾けるような肉体があれば、女の子たちと笑い合いながらビーチの側に立ちたかったはずだ。
しかしサミーはカメラの後ろ側に立つ。
そのかわり彼は世界を切り取る神になれる。
サミーをユダヤ人と蔑むふたりの同級生。
ひとりを徹底的に魅力的に撮り、
もうひとりを徹底的に惨めに撮った。
この作品にはサミーも知らなかった自身の残酷な業が宿っていた。
ふたりは画面に映っているのは俺じゃないと感情をむき出しにしたが、もはや世界は監督の掌中だった。
□映画愛の物語だったのか
スピルバーグの自伝的なこの作品に映画愛はあったのか。
美しい映像の作品ではあったが、愛より業が似つかわしい。
映画芸術に身を捧げるものは、普通の家族愛や観客のような映画愛を手放さなければならない。
祖母の死や母との別離ですら、悲しむことよりも何が映画的かに夢中になってしまうのが監督の性分だ。
「西部劇の神様」ジョン・フォードあるいはスターウォーズの監督を断った鬼才は、オフィスに訪ねてきたサミーにこう教えた。
映画の構図において、地平線が下にあるのはいい。
地平線が上にあるものいい。
地平線が真ん中にあるのが平凡でつまらない。
サミーあるいはスピルバーグは真ん中で生きることをやめた。
それがいくつかの大事なことを手放す人生だとしても。
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