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映画「クライング・ゲーム」(再上映)立ち尽くす赤いポスター
1993年にアカデミー脚本賞を受賞したサスペンスドラマの劇場再上映。
主人公のファーガスはIRA兵士で、人質として拉致したイギリス兵ジョディの見張り役を務める。
敵対する立場ながらふたりは会話を重ね、奇妙な関係が成立していく。主導権は拉致されているイギリス兵のジョディにあり、まるで”逆ストックホルムシンドローム”とでもいうべき親密さが芽生える。
ジョディはサソリとカエルの寓話を話し出す。サソリはカエルの背にのって川を渡らせてもらっているとき、カエルを刺してしまう。そんなことをしたら自分も溺れてしまうのに。生き物には性(さが)というものがあり、たとえ理にかなっていなくても自分の性から逃れられないのだと語る。
ジョディは言う。「ファーガス、お前は優しい人間だ。それがお前のネイチャー(性)なんだ。」
この言葉はファーガスに呪いのように憑りつき、彼の行動は合理的とは言い難いものになる。『なぜそこまでしてやるのか?』、『愛してないのにどうして犠牲になるのか?』、『そもそも嫌悪していたはずではないのか』。
それからもうひとつジョディはファーガスに大きな罠を仕掛ける。これには観客も一緒に仰天する。一時代前のコントのようで席からずり落ちそうになる。
自分にとってこの映画はエンタメというよりは、人間理解のための小説のようだ。愛してないのに自分を犠牲にする。嫌悪しているのに放っておけない。そんな人間の不可解さに立ち会う。
約30年前に池袋の文芸座で観たときにひどく混乱した記憶がある。まだ若いからアカデミー脚本賞を獲ったほどの作品は自分には理解できないのかなと思った。
人間は短絡的ではない。人間は割り切れない。割ったところで端数が残り判然としない気持ちが残る。あるいは素数みたいに割り得ない。
日曜日の夜、広い文芸座のスクリーン、まばらな観客の2階席。映画が終わって改めて赤いポスターの前で立ち尽くした。困惑しながらもそれを話せる人もなく、割り切れない思いで家路を急いだ。あの頃IRAは映画によく出てきた。
いま見直しても自分にはなかなか難しい。作品が難しいのか、人間が難しいのか。
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