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連載(90):人類の夜明|まどろみの中で「一生懸命生きる」

この記事は『かとうはかる(著)「人類の夜明」』を連載しています。

一生懸命生きる

『もし、今日人類が滅亡すると100%分かっていても、私は息子のために弁当を作ります。』

この母の言葉は実に感動的である。


『あと数年もすれば世界は滅亡するのだから、何も一生懸命勉強したり働いたりすることはない。どうせ死ぬのだから・・・。』こんな放言を吐く若者が最近増えているという。

このような若者が増えている背景には、最近ブームになっているノストラダムスの予言書のせいだろう。

つまり、『もう数年もすれば死ぬのだから、今更あくせく働いて金をためても仕方がない、だからせいぜい面白おかしく生きた方が利口だ!』、彼らの考えはそんなところだろう。

しかし、“人類が滅亡することは決してない!”、と断言しよう。

もしノストラダムスの予言を信じ、何もせずただ漫然と生きるとすれば、二十一世紀を迎えたとき、その若者は大あわてするだろう。


もし仮に人類が滅亡するにしても、何もせず死を迎えるのは万物の霊長たる人間の生き方ではないだろう。

今日命がなくなると分かっていても、なくなるその瞬間まで一生懸命生きることが、与えられた命に対する礼儀ではないだろうか?。

これは何も人類の滅亡に限った話ではない。

人間の一生の『生き死に』にしても同様である。


人はいつか必ず死ぬのである。

死ぬと分かっているからといって、何もせず一生ブラブラ過ごすとすれば、人は一体何のために生まれてきたのか?。

死ぬと分かっている。

分かってはいるが、死の訪れるその瞬間まで悔いの無い生き方をするところに、人間の尊さがあるのではないだろうか?。

今日、一生懸命生きてこそ、明日もまた輝いて生きられるのである。

そんな生き方をしている人には、何の不安もない。

なぜなら、やることをやり遂げた人の心には、ひとカケラの悔いも残っていないからである。

不安を抱くのは、ノンベンダラリと生きてきた悔恨の情が、心を煙らせているからである。

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