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夜の帳

いつもの帰り道に、ふわっと漂う橙を見た
目を離せないでいると隣にいた父の声が降ってくる
「神社へ向かっているんだよ」
ずり、と足を少し引きずるように歩く音が田舎道に響く
「入れないのに?」
別に尋ねたわけではなく独り言のように言ったら、そんなもんだ、と小石を投げるように父は答えた

はっきりとした姿形は見えはしないけど、“そういうもの“を幼い頃からよく見かけることがあった
それについて父は言及しなかったし、俺にも見えると言ったことはなかったけれど、多分同じものが見えていたのだと思う

我が家には見えないものがたくさんいた
玄関の床下に封じられた井戸の上、どこかの戸棚に奥深くに木箱にしまわれたままの香炉、寝室の床間にいると聞こえる歌、離れの水場にいる細長い赤色
様々な気配がする、というよりも見えるという表現がしっくりきた
禍々しいもの、凛としたもの、それは感覚的に区別できたし、うっかり触れることもなかった

夏に父と蛍を見に行った日
浮遊する小さな光たちが、まさに命そのものだと思った
触ろうとして手を伸ばしたら、すっと避けられすり抜けていく
鈍臭いな、と父が笑いながら、ふわっと覆うように手のひらで包んで捕まえて、すぐに離し、目で追いかける

「これも、うちにいるものも、本質は変わらない」
この人は、きっと私よりもいろんなものが見えているんだろう
手から逃れた蛍が私の上を通っていく

「ただそこに在るだけ」
そんなもんだ、と呟いた父の吐く息は夏なのに白く見える
いつか一緒に神社の近くで見た橙を思い出した

首からぶら下げて行った虫かごに、摘んだ野花をしまい帰路に着く
蛍と似ていても動かない、田舎に映える星を見上げると、ふと疑問に思ったことがある
「私たちはどこにいるの?」

ずり、と引きずる足音が止まり、見やると、父は少し何かを考えた後に、
「もう少し歩こうか」と、家とは違う方へ足を向け歩き出す
父と過ごす夜は穏やかに長い、とても不思議な時間が我々の間に流れていたように思う


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