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Netflix 韓国ドラマ「誰もいない森の奥で木は音もなく倒れる」感想と考察(ネタバレ)

Netflixで「誰もいない森の奥で木は音もなく倒れる」完走した。だが、何かモヤっと心に残るものがあり「果たしてこの作品は狂気に満ちたサイコパスに不運にも遭遇し、振り回される人を描いただけなのか?」と考えたらそんな短絡的なテーマではない気がしてならなくなった。

この作品のタイトルは「誰もいない森で木が倒れたとき、音はするか?」という「人間の認知に関する思考実験に由来するものだが、そうした観点から作品を振り返ったとき「何か見落としているものが絶対にある」と思った。

劇中の刑事の台詞「鍵は見える物じゃない、あるはずなのに見えない物」がこの作品の本当の主題であるならば「劇中で明確に描かれていないもの」にこそ焦点を当てるべきなのではないか?

そうしてこの作品を振り返った時、気になった3点を中心に個人的な感想や考察を綴っていこうと思う。


ソンアはただのサイコパスであったのか?

Netflix「誰もいない森の奥で木は音もなく倒れる」

狂気の女、ユ・ソンア。彼女のことを「生まれつきのサイコパス」として劇中で描かれる「正義側の視点に感情移入して最終話まで見ていた。

ただ気になっていたのが最初にモーテルに来た彼女と次に来た彼女では別人の様に印象が異なっており「多重人格とか双子設定なのか?」と予想したがそのまま最終回を迎えてしまった。
冒頭では魅力的なファムファタールとしてこれでもかと丁寧に描いていきそうな雰囲気があったのに終盤に連れてこんな単純で雑なキャラクターに設定になるだろうか?と考えたらどうしても違和感が離れなかった。

そこで思い出した「暴力的な人間が身近にいることで暴力を振るうようになる」という警察官の台詞や、最初に彼女がモーテルを訪れた時に言った「水が苦手」というトラウマを窺わせるような発言、「絶対的権力で娘の命さえ左右する父親の存在」などから彼女のバックグラウンドがぼんやりと浮かび上がってきた。
劇中では匂わせる程度にしか描かれなかったこうした要素の集合体こそが「誰もみていない森の中」なのではないか?という推察に行き着いた。

最初にモーテルに来た彼女の印象は抑圧され無気力になった女性の姿であり、殺人を犯した後の彼女はタガが外れたように暴力と怒りと権力で人を支配していく。

これってソンア自身が父親にされてきたことではないだろうか?

Netflix「誰もいない森の奥で木は音もなく倒れる」

殺人を犯した後のソンアはトラウマを窺わせるような「水」をなぜか克服しており、その中を自由奔放にすいすいと泳ぎ回る

ここで最初の予想に立ち戻るのだが、おそらくソンアは「子殺し」を契機に利己的で暴力と怒りによって他者を支配する父親の人格に成り代わり、その絶対的支配から自らを解き放ち人生のハンドルを自分が握っている感覚を取り戻そうと試みたのではないだろうか。

もちろん生まれながらの性質もあるだろうし父の権力を借りて全て思い通りになっている(と思わされてきた)環境が彼女の狂気に繋がっている部分もあるだろう。
だが子殺しのあとの彼女は誰が見ても「異常」で、劇中演出にもある身の危険を察知し興奮状態になった猪が野放しにされているような雰囲気を常に纏っている。

こうしたことからも父親が家柄の保身のため全てを揉み消してきた結果、彼女は適切な治療を受ける機会も奪われてきたのではないかという推察もできる。(精神科の記録があるという台詞もあったがそれにどこまでの自由意志が担保されていたのか、また本当に適切な治療を受けられていたのかは疑問である)

殺人後に返り血を浴びて自撮りをする娘の画像データを見ておきながらPCを閉じたシーンに象徴されるように、父親は既にソンアを見えない存在としてしか扱っていなかった。

つまり、彼女は誰もみていない森の中でとっくに倒れた木だったのではないか?

Netflix「誰もいない森の奥で木は音もなく倒れる」

彼女をただのサイコパスとしてしか見ていなかった時は元旦那のDVも彼女の嘘でしかないと思っていたが果たして本当にそうだろうか。

邪魔な子供を殺すことを決めてモーテルにきたサイコパス女ではなく、全ての暴力から子供と自分を逃すためにたどり着いたのが森の中のモーテルだったら
ただのサイコ的な殺人ではなく追い込まれた挙句の無理心中を試みようとした結果だったらどうだろう、視聴者の見方は変わるのだろうか?

何しろ他の登場人物の「やむを得ない事情」で犯してしまった正当化される罪と比較して、彼女の罪には感情移入できるような背景は劇中では全く描かれることがないのだから。

このように考えていくと、ソンアという女性の物語は映画「オオカミの家」に通じるものがあるように感じてならない。
父親が作った誰もいない森に閉じ込められ、いつも混乱しながら逃げ惑っている。
いつでも後ろには銃を構えた父親が追ってくる。

ソンアはこうした精神状態でずっと生き続けてきたようにも感じる。
劇中で彼女が見ていた「暗殺の森」の名シーンのように。

行く先すべてに父の息がふきかかってるような状態で唯一彼女がその手を逃れ、自分の居場所を確保できる場所あのモーテルであったのではないだろうか。

そこはぬかるんだ泥に車がハマれば損得勘定なしに助けてくれる父親と同年代くらいの男性が経営してるモーテルで、彼女はその男性の連絡先をお父さんと登録していたのだった。

この作品が「壮大な思考実験」だとしたら

Netflix「誰もいない森の奥で木は音もなく倒れる」

ドラマをある特定の主人公の目線で見ている時、その人物の語りや回想によって物事が語られそれを真実だと思い込んで感情移入してみるわけだが、果たして物語の主人公は一切の嘘をつかないと言い切れるだろうか?

ドラマや映画を鑑賞する上で観客側が「大前提」として受け入れておかなければ物語を追うことが難しくなる「共通認識のタブーに切り込んだ作品が是枝監督作品の「怪物」だと思っているが、もしかしたらこの作品もそういったチャレンジをしているのかもしれない。

正直、本作も何も考えずに見ていたらよくあるエンタメサスペンスドラマでしかないとも言える。
韓国ドラマのあるある展開やエグ味のあるシーンによって視聴者を惹きつけるだけで意味深な演出にも特に意味はなかった、なんだったんだあの伏線は、雑な演出だなあという感想で終わってしまいそうにもなる。

だが、それで終わってしまうのはこちら側、つまり鑑賞側の態度によるのではないだろうか。「すごく好みだ!面白かった!」と大手を振って言えるわけではないこの作品をここまで考察したくなった理由はまさにそこにある。

ドラマの視聴中は分かりやすく描かれるモーテルオーナー達の選択と悲劇に「誰もいない森で木が倒れたとき、音はするか?」という思考実験を重ねていたが、この作品自体を森の中の「音」だと考えた時、描かれることのなかった「倒木」こそ作品の本質なのではないかと思い至った。

つまり、この作品自体が視聴者に「誰も見ていない森(描かれることのなかったシーン)で倒れた木の音(描かれていない真実)が聞こえるのか?」という壮大な思考実験を投げかける作りなっているのではないだろうか。

モーテルオーナーが妻を殺したという仮説

Netflix「誰もいない森の奥で木は音もなく倒れる」

前述したようにこの作品自体が「思考実験」であると仮定した時、そこに視聴者が気づく大きなヒントとなる会話が劇中に登場する。

所謂「ステレオタイプな若い女性警察官(凄く嫌な書き方だがあえてこの書き方を採用した)」の印象と裏腹に数々の事件の容疑者を逮捕し、いつしか「」と呼ばれるようになったユン・ボミンが友人に「君は容疑者を捕まえる天才だ。何かコツがあるの?」と尋ねられる。

そこで彼女が返す台詞を引用したい。

鍵は見える物じゃない
あるはずなのに見えない物 
その人に欠けている感情や行動
供述から抜け落ちている単語や言葉
何から目を背けているか

Netflix「誰もいない森の奥で木は音もなく倒れる」より

彼女がこのように答えると友人は「全員を疑うのは無理だ」と言う。
その意見に対して彼女の答えはこうだ。

『私は疑う、すべての人を』
『被害者その家族、隣人や目撃者も疑う。自分の同僚も家族も(中略)』
『隣に座っているあなたのことも』

この作品を見ているなかで私たちが1番感情移入するのは誰だろうか?
善良な市民として描かれ、不運に対しても努力を尽くすバッググラウンドがしっかり語られる登場人物たち。
感情移入するにつれて彼らに正義を感じ、犯した罪さえ罪であると感じなくなり、むしろ彼らをかばいたくなる気持ちすら自然にわいてくる。

だが、「鬼」と呼ばれる彼女の視点からこの作品を振り返るとしたらどうだろう。

この作品で描かれていないが重要なこと。
主要人物に欠けているもの。

そう考えていて気づいた

この作品は異なる年代の異なる場所で似たような経験をする2人のモーテルオーナー達の話が交錯するストーリーであり、「主人公」的な立ち位置に置かれているのはこの二人である。

では二人に共通する重要かつ欠けているものはなんだろうか?
そこで浮かび上がってきたのが「妻の存在」であった。

Netflix「誰もいない森の奥で木は音もなく倒れる」

モーテルのオーナーの妻のうち1人は癌で四ヶ月の寿命宣告を受けており、もう1人の妻はモーテルで起こった事件を苦に自ら命を絶っている
この設定から視聴者は二人の妻が病と自殺によって亡くなったことを前提としてドラマを見進めていくことになる。

だがよく考えて欲しい。
二人とも「死ぬことを予感させるシーン」や「自殺した遺体」は描かれているが「死ぬ瞬間」は描かれていないのである。

そこで再度、心に引っかかっていたシーンを2つ思い出した。

1つはモーテルオーナーであるク・サンジュンの妻が自殺し、警察官が駆けつけた時である。

Netflix「誰もいない森の奥で木は音もなく倒れる」

このシーンでは遺書が机に置かれ、遺体となった妻が横たわる奥に夫のク・サンジュンが何も言わずにただ呆然と座り込んでいる

夫よりも後に駆けつけた警察官のユン・ボミンが懸命に心臓マッサージを行っている中、サンジュンは完全に全てを諦めた状態であった。
もちろん彼の置かれた状況や精神状態的に為す術なく力尽きてしまったという見方もあるだろうし順当にこのシーンを見ればそうなる。

だがそのシーンを見た時、彼の様子に異様さ」といったものを感じたのだ。

そのシーンまでのサンジュンの描かれ方として何かショックな出来事に出くわした際、非常に感情的になり取り乱すことが多かった。
だが妻の遺体の奥で黙って座り込む彼は、目の前の妻の死にショックを受けているというよりもっと別の何かを見ており、何かを終えた直後の虚無感に全身が覆われているような感じがした。
それはまるで、虚しさと同時に安堵を感じているかのような姿であった。

もう1つはまた別のモーテルオーナーであるチョン・ヨンハが見る夢のシーンだ。

Netflix「誰もいない森の奥で木は音もなく倒れる」

早朝物音に目を覚ます彼が庭に出ると、大切に手入れをしていた花壇を自らめちゃくちゃに荒らす妻の姿がある。
おそらく残された命の短さを前に、死への恐怖や理不尽さや恐ろしさや悲しさに心が耐えきれなくなってしまったのだろう。
そんな彼女をヨンハは「もういい、やめろ」と抱きしめるように制止して涙ながらに宥める。
だが次の瞬間抱きしめていたのは妻でなく恐ろしいソンアの姿に変わっていたのだった。

なぜあれほど愛した妻の姿と狂気的なソンアの姿が重なってしまうのだろうか?

単なる夢と片付けることもできるが、花壇を荒らす妻が彼の実際の記憶のフラッシュバックだったとしたら。
身体だけでなく心まで壊れていく妻の姿をこのまま見ているのは辛いと考えた彼はその後どのような行動を取ったのだろうか?

Netflix「誰もいない森の奥で木は音もなく倒れる」

ソンアが言った「おじさんと私は共犯者なの」という台詞にもし劇中で描かれているのとは別の意味まで含まれているのだとしたら?

「不器用だが家族のために懸命に努力する父親」
「先の長くない妻の夢を叶えて優しく寄り添う理想の夫」

といった目に見える情報に覆い隠されて、見えなくなっている真実があるかもしれない。

所謂「よくある韓流エンタメサスペンスドラマ」的なていをとりながら、誰もいない森で倒れる木の微かな反響音に気づき、耳を澄ますことができるのか?という風に視聴者を試す高難易度の作品だったのではないかとも今になって思う。

はたして誰も見ていない森の中で木を切ったのは誰だったのだろうか。

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