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ただ通り過ぎただけのこと

僕は冬の寒さを忘れます。

毎年冬の寒さを思い出しながらこの季節を迎える。というのも、冬が本番になるころに、あれ、冬ってこんなに寒かったっけ、なんて言いたくないでしょう?寒さが嫌いなので、せめて気持ちだけでも準備がしたい。

冬も最初は調子が良い。12月、暦の上では立派な冬だ。あれ、こんなもん?お前の実力こんなもんだったっけ?そんな余裕をかましつつも、冬も半ばになれば本気を出しはじめる。あれ、とんでもなく寒い。寒すぎる。ああ、そういえば冬ってこんなに寒かったんだ。毎年それを繰り返しているうちに、その年が終わる。

自分の感覚のデタラメさに笑いたくもなるのだが、要するに、寒くならなければ本当の寒さなどすぐ思い出せなくなってしまうのだ。何故なら、寒いのは寒い時だけだから。寒くない時に寒さは思い出せない。

冬が終われば、季節は色づき、花粉だなんだ、猛暑がなんだと忙しくなる。その頃にはもう、冬が寒かったということだけしか思い出せない。

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友人が「思い出せなくなるのがとても怖い」と言った。

「昔付き合っていた人のことが、思い出せない。どうして好きだったのか、どれくらい好きだったのか。頭がおかしくなるくらい好きだった、その事実は覚えている。けれども、そのとき、自分がどんな気持ちだったのかが思い出せない、それが本当に怖い」

気が利いたことの一つや二つでも言えればよかったけれど、忘れるから生きていけるんじゃないのかな、なんて歯の浮くような言葉を吐いては宙に浮かんで消えていった。

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この寒さと同様に、痛みについても考えてみる。

傷があるうちは、何か他のことが手につかなくなるほど、痛い。そして、世界で一番つらいのは自分だと思いたくもなるかもしれない。一生この痛みと付き合って生きていくのだろうかと死にたくなることもあるだろう。

けれども傷はいつか癒える。思い出そうとしても、見えない傷跡が疼くだけで、その痛みは二度と帰らない。そんな日が来るはずだ。

痛みを忘れるということは、もしかしたらほんの少しだけ、寂しいことなのかもしれない。だけど、見えない傷跡を撫でて、時々懐かしんであげることくらいは、できるはずだ。

寒さも恋も痛みも、通り過ぎただけ。でも、寒かったこと、好きだったこと、痛かったことは、忘れないだろう。

#エッセイ #冬 #日記 #恋   #熟成下書き

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井出崎・イン・ザ・スープ
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