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君は異邦人だった
君は異邦人だった。孤独だった。染まり切れない周りの空気感が歯がゆかった。人と同じが羨ましかった。きっと、自分の居場所がどこにもないような気がしていただろう。
僕は、地方特有の「こうでなくてはいけない」という同調圧力に嫌気が刺して地元を飛び出してきた口だ。つまり、生まれ育った土地に居てもどこか、異邦人である様な疎外感を抱いていた。
東京は良い。まるでみんながみんな異邦人であるようだ。むしろ、この土地で育ってきた人たちの方が、この街についてわからないことだらけの様な気がする。
人は大人になるまでに、様々なコミュニティを経験する。小学校や中学校、部活またはクラブチームなど以外にも、友人関係という小さな組織を幾つも経験してきたはずだ。初めてコミュニティに飛び込んだ時の事を思い出して頂きたい。自分は部外者なのだという、あの孤立した雰囲気を肌で感じ取っていただろう。
コミュニティにはコミュニティの過去があり、慣習があり、それは所属する人々によって作られていく。僕たちは様々な組織に足を突っ込みながら生きているわけだけど、いつも「こうでなくてはいけない」という、様々な暗黙の了解に板挟みになる。それも一様ではないから、所属する集団によって顔を使い分けるようになる。
僕はその「こうでなくてはいけない」という価値観に染まり切れないにもかかわらず、そこに居なくてはいけないというのは本当に不幸なことだと思う。だったらお互い無関心でいられる場所の方が、よっぽど優しいと思う。
アルベール・カミュの『異邦人』を読んだ。現在とか哲学とか許しとか無神論者とか実在主義とか、難しい事はわからないが、僕はこの小説が好きだ。
何事にも理由付けが必要か、と思う。ママンが死んで、涙を流せない人間は冷淡か。ママンが死んだ翌日に海水浴し、懇意にある異性と情事に耽ることは悪い事か。
母親が死んだら泣かなくてはいけない、泣かなければあなたは悲しんでいないのと同義だ、と、これを常識と呼ぶのだろう。もちろん常識は必要だ。必要だが、時々息苦しくなる。
故郷と、いま自分がいる場所を想う。
だから、東京は良い。どこに行っても、自分と同じようにどこにも根を張ることができないようなどうしようもない人間が、本当にどこにでもいるから。異邦人で溢れかえっていて、もはや君は異邦人ですらない。
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