いつか行きつく場所

海の見える静かな町で、何かを書いていたい。書くとしたら、小説かエッセイだろう。そんなことをしているうちに、ブルータスとかにも出るようになっちゃったりして。いつしか「映画を好き勝手語る企画ならあの人だな」とかそんな適当なこと言われちゃうわけ。そして適当なことを言うだけでそれっぽい人たちから「あの人が言うことはやっぱり違うな」とか一目置かれちゃうわけなんだよ。でもそういう生き方って、流されているうちに行き着くものなのかもしれないね。

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本当に好きな友達に、お前はなんで生きてるの、と聞いてみた。いや、漠然としてるけど…つまり、なにかを選択する時の判断基準や、モチベーションはどんなところに置いてるんだよ、と、できるだけ投げやりに。そしたら彼は、一つでも多くのオモローを発掘するため、と簡単に言い放った。

一つの確固たる意志のみに従うことって、ある意味では流されているんじゃないかな。普通、人は何かを選ぶときに、こうした方が良いとか、こうするべきだとか、誰かにこう思われたいとかこうなりたいとか、様々な要素から納得いく答えを導き出すでしょ。

でも彼の場合、その判断がオモローかオモローじゃないかであって、だからこそいつも無茶ばかりして僕を呆れさせるんだけど、いつもちゃんと健康的なんだよね。よっぽど僕の方が不安定で、疲れているような印象を与えるらしい。

アメリカンゴスペルがやりてえと言ってこの春からアメリカに発つ友人も、駅前で裸になって捕まった友人も、それが自分の美意識に反していないかどうかという基準しかもっていなかった。

正直、彼らの生き方はあまり建設的だとは思えない。けれども、彼らはその一つの基準に沿って、日々を選択している。だから、いつも思いもよらぬ結果を生み出して、僕たちを驚かせる。

精神的に自立しているのに、地に足をつけず漂っている、その逆説的な生き方は、どこに行き着くのだろう。

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これで良かったのかなぁと常々思う。僕もいっそ、流されてしまいたいと思う。でも、まぁいいや。就職しても、書き続ければいいか。なるべく僕も、自分の美意識に従って書いていよう。

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井出崎・イン・ザ・スープ
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