【与太】深夜牛丼の楽しみ、あるいは冗長な文章(飯が冷める)
「牛丼屋が好きだ」
以下に展開される冗長な文章はこの一文で事が足りる。
牛丼に限らず豚丼もカレーも定食も好きだ。食後のオレンジジュースもすごく美味しい。牛丼屋にあるメニューは大体好きだ。
しかし牛丼屋とはなにか?
私達はこの問題を素通りしてきた。なぜなら牛丼(その他)はそんなことを考えるまでもなく美味しいからだ。
今日はこの点について考えてみよう。さっき頼んだ牛カレー大盛が着丼するまで。
私は革命広場のギロチン台に登るアントワネットのような優雅なステップで席へ向かう。
【状況1】私は牛カレー大盛を待っている。
都市は都市空間とは極めて不自然な自然であり、牛丼屋はそのアイコンである。
【状況2】店員が専用のデバイスで私のオーダーを確認した。
牛丼屋において私は食欲という生体として自然の衝動を満たすための客としてそこに存在し、店員はその衝動を満たすためのそこに存在する。
そして関係を媒介するのは貨幣である。
私は機械に小銭を入れることにより牛丼屋の客として私に変化し、店員である人物は私の小銭とオーダーによって機械が命じた通り機械そのものの動きで食事を提供する。店内の人間はそこには自分しかいないかのように振る舞うし、事実そこには誰もいない。
【カレー1】カレーが冷蔵庫から取り出された。
そこには客と店員しかいないのだ。向いの客との闘争は始まらない。すべてが並列的に存在する。
つまり我々は牛丼屋において食欲(自然)から出発し、貨幣を媒介して、極めて不自然な都市空間に還元されるのである。
【カレー2】店員がパウチからカレーをタッパー容器に注いでレンジに入れた。
都市における我々は貨幣によって並列化されるのだ。この構造は我々の生活において普遍的であろう。
【カレー3】カレーはレンジで温められている。
ところでこの短くも冗長なテキストの目的は、セッティングを終えたギロチン台にうつ伏せで横たわるあの永遠よりも長い時間を表現するとともに、短くも冗長なテキストを書くというトートロジカルな企みに起因するものであることは、賢明(であろうと私が期待する)な読者諸氏はこの文節と前段落が自己回帰を目的とするトートロジーによって成り立っていることならも既に理解されているだろうが、読点を挟んでもなお冗長なテキストが展開されていることについて如何に考えているかについて私(実存としての仮定)はいささかの懸念を覚えつつもこのテキストをタップしている。
【状況3】他の客が店員に水を要求した。
しかしながら私がこの冗長かつ婉曲なテキストにおいて示唆せんとするところは冒頭に述べたように牛丼屋が好きだという冒頭の短文によって極めて端的な要約を許容することを改めて確認するとともに段落を終える。
広場で群衆が私の生首を要求する。
【状況4】店員が水を注ぎ終えると私のカレーが温まったことをレンジが知らせた。
微かな金属音が混ざる電子音は福音。
そしてトートロジーが終わる。ワンオペで回る深夜の牛丼屋で牛カレーを待っている私は牛丼屋が好きだしギロチン台にうつ伏せだ。
そして、そう、今まさに
【カレー4】店員が皿にご飯をよそい、カレーはご飯にかけられた。そして牛をのせられる。
私は恍惚として、そして涎を垂らしながらそのエレガントな動作を見つめる。それはギロチンを操作するサンソンの手付きのようにエレガント
【感想1】早く食べたい。
生唾を飲みこんだ。涎をさりげなくパーカーの袖で拭う。ギロチンの刃が首に食い込むまでの刹那のように永遠。
【状況5】牛カレー大盛を持った店員が私に近付いてくる。私は水を一口飲み箸入れから割り箸を一膳取り出す。
サンソンは刎ねられた私の首を拾い、私はひどくエレガントな動作で箸を割る。スプーンは盆に添えられている。
【カレー5】牛カレー大盛は私に食べられている。
皿にスプーンがあたる硬質な音と割り箸がぶつかる柔らかな音が響く。私の首は胴体と共に荷馬車に載せられる。
【状況6】私は牛カレー大盛を食べている。
カレーは思ったよりも辛くて食べごたえがある。カレーに味噌汁がついてきたのは驚いたがしっかりとマッチしている。カレーの味が牛と合うように作ってあるのだろう。
【感想2】おいしい
牛丼屋のカレーなのだ。すべての感情を押し殺した店員さんの動きがクールだ。
私の首と胴体は荷馬車に揺られている。
【状況7】私は牛カレー大盛を食べ終えた。
食べ終えて「ごちそうさまでした」といったら店員さんが少し笑顔になった。都市は不自然であっても自然なのだ。
【状況8】ごちそうさまでした。
私は埋葬される。涎は垂れている。